2015年11月30日月曜日

人だから、合う合わないはある・・・のか?

 月1では何か書こうと決めていたのにも関わらず、早くもネタ切れしての月末。自分の12年間の教員生活なんてこんなもんだと自虐的になっておりますが、ひねり出した渾身の文章をどうかお読みください。

 教員をやっていて、これだけは言わない、思わないと決めていることがいくつかある。子どもの人格を否定することを言わないのは当たり前だが、いつどこの場でも言わないようにしている。他にも、モンスターペアレントという言葉を特定の人にかぶせることも絶対にしないように決めている。大切な教え子の、その親をモンスター呼ばわりすることで解決することがあるとは、まったく信じられない。それからもう一つ、「人だから、合う合わないはある」という言葉は絶対に使わないと決めている。思うこともしない。

 「人だから、(友だちに対しての)合う合わないはある」という言葉は、学部時代の実習の時に、ある先生から教わった言葉だ。そのあとに、先生は続けて「だから、合わない友達との距離の置き方を考えていきましょうと教えるんだ。」と言った。それを聞いたとき、激しい違和感を覚えたことを今でも忘れることができない。
 「人だから合う合わないはある」と教えてしまったら、子どもは「合う」と「合わない」という単純な二元論で友だちを判断してしまうのではないだろうか。それに僕は激しい抵抗を覚えたのだ。「合わない」と人を判断するのは、何かその時点で、永続的に、交わりや分かりあうことを放棄するような気がして、そんなことを子どもに教えるなんて、絶対にすべきではないと思ったのだ。
ただ、教員となり、学級経営をしていく中で、子ども同士で馬の合わない組み合わせがあることは受け入れざるを得ない事実だった。それが起こったときに、お互いが努力して分かり合わなければいけないと諭すことが、子どもを追い詰めていく。そんな場合もあるということも経験した。その子が真面目なら真面目なほど、友だちを受け入れられない自分を責めるのだ。あの先生の言葉は、そんな真面目に自分を責めてしまう子どもを救うための一言だったのだと、その時分かった。

しかし、それが分かりながらもなお、僕は「人だから、合う合わないはある」という言葉を子どもたちには投げかけることはしていない。やはりその言葉の持つ負の力は大きいと思うからだ。子どもたちに、人間は「合う」人と「合わない」人の2種類に分かれるんだよ、というメッセージを送ることは絶対に避けないといけないという強い思いがある。
馬の合わない組み合わせがあったときに、「ちょっと距離を置いたほうがいいのかもしれない。」という内容のことを子どもとの会話で出すことはある。ただ必ず次のことも付け足すようにしている。「今はうまくいかないけれど、きっともう少し時間が経てば、相手も、それから君も、ちょっと変わって、ひょっとしたら仲良くなれるかもしれないね。」そして、僕は、どうして馬が合わないのか、一生懸命考えてみて、それを変えられるように助けられることは助けようとする。
それから、クラス全体にはこう言っている。「なんだか仲良くなれないなって友だちがいるかもしれない。でも、きっとそれは、好きになれないところがあるってことで、反対に、同じ子のなかに、好きになれるところもあるのかもしれない。人っていうのは、単純じゃないからさ。ひとりの人の中に、いろんなことが混じっていて、ひとりの人になるからね。だからできれば、自分が好きだなってところを、相手の中からたくさん探せたら素敵だよね。」
ひょっとしたら、この全体に話していることは、自分が子どもを見ている見方なのかもしれない。そうか。なんで「人だから、合う合わないはある」っていう言葉に、すごく抵抗感を覚えるかって、それって子どもに「(先生だって)人だから、合う合わないはある」っていうメッセージを暗に伝えることにもなるからなのかもしれない。子どもが「自分は先生にとって「合う」の?それとも「合わない」の?」そういう風に考えてしまうメッセージなのではないだろうか。そんなことを伝える教師に僕はなりたくないのだ。
この12年間、100人以上の子どもを教えてきたけれど、幸運なことに、誰一人も「合わない」子どもに会ったことがなかった。どの子どにも好きなところを見つけられて、そして好きになれた。きれいごとではなく、それは本当のことだ。だからこれからも「人だから、合う合わないはある」って言葉は絶対に使わないようにできると思う。
そして、子どもたちもそんな風に育ってほしい。誰とでもすべてがすべて分かり合える関係にはなれなくても、「合わない」と切り捨てるのではなく、どこかに「合う」要素を探していけるような、そんな人になってほしい。きっとそれが、多種多様な人々を受け入れていく素敵な社会を創っていくことにつながると思うからだ。






 というところで文章を締めたかった。美しく締めたかった。が、懺悔する。子どもたちにはそんな風に接してきたと、胸を張って言えるが、ある集団の一員としての自分を省みるとどうだろう。僕はその中で「合わない」人がいるという態度をとってきた。それは自覚的でもあり、それ以上に無自覚的でもあり。
 きっと「合わない」んじゃない。勝手にそう決めつけているだけだった。僕は変わらなければならない。