2023年3月19日日曜日

絵本の会

立川で小島くんや濱口さんが多賀一郎さんを招いて企画した会。

声をかけてともに参加した先輩は20才近くも年上。

いまだ学ぼうとする姿勢を学びたいと思う。

立川まんがパークが2階にある会議室。

昔大好きな人たちとよく人狼をやっていた懐かしの会議室。

入ってみると満席に近く、みんなが興味あるテーマだと分かる。


この日読み聞かせてもらった本はなんと全部で22冊。

それぞれに抱いた思いがあり、語れるのだけれど、初めの5冊にしぼって、ここに書き残しておきたい。


初めて話を伺う多賀先生は、とてもざっくばらんとした語り口。


最初の1冊は谷川俊太郎の『ぼくとがっこう』。

「不登校が急増していますね。すべてが学校のせいでしょうか。教師は万能ではないんですよ。特に1年が終わるこの時期。足りないことではなく、自分がやってきたこと、できたことに目を向けていけばいいんです。」

優しい口調でそんなことを話してから読み聞かせが始まる。

読み終えて、本の内容にからめ話す。

「学校でけんかできなくなっているように思います。」


2冊目が驚きの1冊だった。

『とんでいったふうせんは』外国の絵本。

なんと認知症をテーマにした1冊だった。

人の思い出が風船に見立てられている。

語り手である男の子が、おじいちゃんが大切な記憶の風船を手放していくことを嘆くが、それを最後に親が諭す。「あなたのもとに風船が残っているでしょ」と。

とても素敵な絵本だった。

この1冊は、絵本のある種の魅力が強くつまった1冊だったと思った。

どう向き合っていいか難しいことを、決して遠回しにすることなく、かといって直接的でもなく、何よりあたたかく描く。

それは絵本だからこそできるものだと感じた。

子どもたちにも読みたい。


3冊目は『メロディ だいすきなわたしのピアノ』。

多賀さんはおもむろにパソコンから音楽を流し出す。

バックミュージックが流れる読み聞かせは初めての体験だった。

本の内容に重なり、よりふくよかな印象になる。

何よりロマンチックだ。

こうして振り返って、大学生のころに近藤先生に読み聞かせしてもらったことを思い出す。

彼もロマンチストだった。

自分のなかにもロマンチストの一面があると自覚している。でも、それを人前に出すことはなんだか気恥ずかしい。

けれど、でもこうしてロマンチックな読み聞かせの時間に浸ることはよかった。

教室がロマンチックになるなんて、素敵じゃないか。

ちょっと勇気を出したいなと思った。


僕が最も心惹かれたのは4冊目の『まいごのどんぐり』。

子どもが「ケーキ」と名前をつけ、その名前をお尻にも書いたどんぐりを無くしてしまう。

そのどんぐりの目線で書かれた1冊。

たまらなく惹かれたのは、物語終盤。子どもは青年になり、どんぐりもいつのまに木に育っている。

その木から落ちたどんぐりを見つけた青年がつぶやく。

「ケーキ?」

ぐっときてしまった。

そういうことがあってもいいじゃないか、そう思った。

途中までシルヴァスタインの『大きな木』に似ていると感じたが、この「ケーキ?」の一言はあたたかな衝撃だった。

この本も絵本、そのなかでも特に物語の持つ豊かさをたっぷりと抱いている1冊だと感じた。

素朴だけれど丁寧でやわらかに彩られた絵。手元に置いておきたいと強く思った。


5冊目『ずっといっしょ』。

6年生の年度初めに読み聞かせようと決めた1冊。

「ずっといっしょ」そのメッセージがかわいらしい絵とエピソードのなかでとにかくまっすぐに届けれられる。

ともすれば暑苦しい僕が、それでも大人への不信感を抱いているだろう一部の子に届けたいメッセージがそれだ。この絵本が、それを叶えてくれると思う。

このあとの本もそれぞれに味わいがあって、いくらでも語れてしまいそうだ。

なんとも贅沢な時間だった。


以下、感じたことも書いておきたい。


〇「絵本を使う」ことへの抵抗感

近くの参加者の方と感想交換をしているときに感じたこと。

「子どもたちをこうしたいという意図がある読み聞かせ」をされている方がいた。

それは驚きだったし、実は心の中で強く抵抗を感じていた。

なんだかそれは絵本に失礼な気が、僕にはしてしまう。

誰かを思い通りに変えていくために絵本や物語はあるのではなくて、豊かな物語に浸ることで人もまた豊かになっていくのだと僕は思う。

道具として絵本があるのではなくて、僕らが絵本の世界におじゃまして、そこに浸ることで人は感化されていくのだと思う。

多賀さんが言った「読み終わったあとは子どもたちに任せる。何を感じるかは子どもたちに預ける」っていう感覚と似ていると思う。

「絵本を使って子どもたちを…」みたいな感覚は教員特有のエゴなんじゃないかと思った。

でも、ともすると僕も無意識にそんなやり方をする気がする。

そういう自分に注意深くありたい。

そういうおこがましさみたいなものに、敏感な子どもはきっといると思う。


〇自分自身の中にあった豊かな読み聞かせ体験

多賀さんの淡々とした(この意図は説明された)読み聞かせをたっぷり聞くことができ、今回、自分が読み聞かせを聴く体験に浸ることができた。

ここ3年、石川晋さんが受け持つ子どもたちに読み聞かせをしてくれているが、どうしてもそのとき僕は学級担任の自分を降ろせない。読み聞かせを聴くクラスの子どもたちに意識がいってしまうのだ。

でも、この日はたっぷり聴き浸ることができた。

そうしてみると、晋さんの語りもなぜだかよみがえってきて、それぞれの持つ魅力を頭と心で反芻していた。

さらに学校で同僚がしている読み聞かせも思い浮かんだし、20年も前に聞いた尊敬する先輩の読み聞かせもなぜだか浮かんだ。

それから、地元の呑み屋で知り合った役者の方のひとり語りの舞台を見に行ったこともふと思い出した。

誰かの読み聞かせをモデルにしたことは無い気がしていたのだけれど、それでも自分のなかには豊かな経験があって、それが自分を作っているんだなと思った。

今こうして振り返っていて、昔NHK放送センターで研修を受けたとき、トロッコの読み聞かせを年配の男性の講師にすると「あなたが物語が好きだということが良く伝わってきた」と言われた喜びも思い出され、うれしくなっている。


今年1年、子どもたちに本を読んでこなかった。時間や持つ教科のこと、言い訳はいくらでもあって、言い訳してきたんだけれど、まずは週1冊、来年は読むことにしたい。

それを決意した。


終わった後、同僚と近くのパン屋さんで1時間ほどたっぷり感想を交換した。

同僚とこういう話ができることがすごくうれしい。

お互いの読書体験を振り返ったりして、楽しい時間だった。


隣町でこんな機会があるなんて、本当に僕は恵まれている。

小島くん、濱口さんに心より感謝したい。

2023年1月29日日曜日

牧内の授業

1月の半ば、中高の同級生の同級生でフリーの記者をしている牧内昇平が、その仕事について受け持つ学校の子どもたち相手に話をしてくれた。

すごくうれしかった。

話の前半は今取材していることについて具体的な話。
みずからが取材した写真を使いながら、子どもたちに質問を投げかけ、話がすすんでいく。
そこから浮かび上がってくるのは、私たちのなかで薄れているが、福島では今も原発事故と暮らしていること。
「だから僕は福島に住んで、福島のことを伝えたいんです。」

後半は記者の仕事の意義について、牧内の思いが語られる。

「記者の仕事は現代史を作ること」
誰かが今いる今日を丁寧に書き残しておかないと、誰か偉い人に歴史が書き換えられてしまうかもしれない。普通の人である自分が歴史を作ることに意味がある。

「民主主義のための仕事」
みんなで話し合って大切なことを決めていくのが民主主義。
そのためにはみんながしっかりと話し合うための情報を得ることが必要。

「おかしい!を世の中に伝えたい」
おかしいことについて、きちんと伝えたい。おかしいことに直面している人が、ひょっとしたら声をあげられないかもしれない。でも、それを「おかしい」と言うことが、大切なはず。

語り口はいくぶんまともになっていたけれど、どこかあのころの牧内のまんま怠惰な雰囲気がありながら、こうして書き起こしてみれば、子ども相手に本気で話してくれたことが再確認できてうれしい。

途中で子どもたちの投げかけに、牧内が漏らすようにふと返した言葉が印象的だった。
「だって、それが正義でしょ。」
「正義」という言葉を簡単に使わない人間だと思う。それでも、その言葉がふいに彼の口から洩れた。
懐かしかった。
高校時代に、友人数名で雑談をしているときのことだった。
下世話に世の中を小ばかにするような話をしていたときだった。
一度だけ牧内が、その場のノリに合わせず、「俺はそういう考えなんだ。俺は(みんなが否定している)それを正しいと思っている。」と言ったことを覚えている。
あまりにはっきり言ったので驚いた。
彼が授業で子どもに漏らした「正義」という言葉はあのときの牧内のようだった。
きっと本人は覚えていないだろうけれど。

授業の後半、急に感極まってしまった。
教室の隅の席で毎日寝続けていた牧内と、馬鹿も思いつかないような馬鹿なことをし続けていた僕が、同じ場所からそれぞれの場所に巣立って大人になって、こうしてまた未来を作る仕事をいっしょにできた。
何かふいに目の前の子どもたちに勝手に重ねてしまったのだ。
今目の前にいる子どもたちも紆余曲折のなかで大人になっていく。そして、もしかしたら、それぞれ分かれていく日々が、あるタイミングで再び重なる瞬間があるのではないか。今こうして机を並べているように、人生のあるタイミングで、ふっとお互いの人生が重なる瞬間が来るのではないか。きっとそうだ。牧内と僕が今こうして重なっているように。
そんな確信にも似た気持ちになった。変に感極まってしまった。

それにしても、腕を折ってくるとは思わなかった。