2020年5月17日日曜日

2020.5.9マーキーオンラインセッション「きく」トレーニング

5月9日にマーキーのオンラインセッションを受けた。
テーマは「きく」トレーニング。僕に欠けていることだ。
マーキーのすごさは2月にあった清瀬市での講座で痛感していたから、この日がとても楽しみだった。
事前に15分の逐語記録をとることを課された。
同僚の西本さんに相手になってもらう。
そして、その日の夜にそれを文字起こししていく。
それは初めての体験だった。
自分のあいづちや投げかけ、相手の答えを文字に直していくと、気づくことがたくさんあった。
大きな発見は、実は相手に与えているものは、言葉以上に声のトーンや話し方に現れるのだなということ。
自分にとって都合が悪い話題でたときの、合いの手の「はい」は声がとても低かった。

今回はマーキーに提出するものだから、という意識があった。本当は普段通りに聞いたほうがトレーニングになるのだろうけれど、ふだんよりずっときくことに意識をしていた。
その結果、僕が話を促していないのに、彼女の話が深まっていくのだ。これには驚いた。
これまで本などで読んだ、きく人がきくことに専念することで、引っ張り出さなくても相手は話を深めていくという現象が実際に起きた。ただ、それはやはり西本さんというすてきな人によるところが
実はこれは話を聞いていたときには気づいていなかった。
実際に文字起こしをして気づいたことだった。
ああ、このオンラインセッションは、セッション前にこうして逐語記録をとることによって、その目的はいくぶん果たされたんだなとその時は思っていた。結構本気で思っていた。今思うと、それは盛大な勘違いだった。

オンラインセッションが始まる。
ときおり鳥の鳴き声が聞こえる。
本棚の前に大きめのホワイトボードを1枚置いて、マーキーが話す。
ここ最近のお互いの状態から話し始める。
マーキーのファシリテーター廃業の話は興味深かった。
「生まれ直す」という強い言葉を使った。
生まれ直せるのは、ひょっとしたら、自分のなかに芯があるからじゃないかと思う。
職業や立場を捨てられるのは、捨てたとしても残るものがあって、そこからまた芽をはやすことができるという確かな思いがあるんじゃないかと思う。
すごく原始的な自信のようなものだ。
ああ、僕はいつもこうして、自分なりの解釈で、自分なりの言葉に直して自分自身の納得を繰り返していく。
それはもう癖のようなもので、こびりついた習慣だ。
無自覚の習慣を言葉に直せたことで、それを意識化に、手元に置けるといいんだけど。

いざセッションの内容を振り返り始めようと思ったのだけれど、どうにもうまく言葉にできない。
言葉にしようと闘うこともできない。

やったことは、2人で音声を聞きながら、逐語禄を少しずつおっていく。言葉に直せばただそれだけのことだ。
でも、それは重い時間だった。

セッションの直後は、感情があふれてしまって、熱した鉄の棒のような状態で、うまく向かい合えない気がした。
振り返って、あの時間と気持ちを留めなきゃいけないって思いは常にあったんだけど、あふれた感情を無理に言葉に直すことも、なんだかしっくりこなくて、そのうち忙しさが押し寄せてきて、ついには1週間がたった。

セッションの後半からもう感情はあふれていた。
マーキーといっしょに自分の受け答えを、丁寧に時間をかけて紐解いていくと、そこには受け答えと言いながら、「受け」ていない自分がこれでもかというほど浮かび上がってくる。
結局僕は自分に寄せていく。
耳を傾けているのは、相手にではない。自分の気持ちに耳を傾けている。
相手の言葉を自分のためにだけしか聞いていない。
相手をとてもないがしろにしている自分の姿がくっきりと目の前に現れて、これまで聞いたふりを重ねてきた大切な人たちの姿(主には妻だ)が浮かび上がってきて、申し訳なさに胸がつぶされそうに苦しくなった。

これからのためのメモを残しておく。
マーキーは人の話を聞くことを、音楽をメタファーとして説明した。
いわく、聞くことを音楽として捉える。
輪唱、それは完全復唱すること。
相手のリズムに合わせて、あいづちをうっていく。相手のリズムの邪魔をしない。
僕は歌や音楽にコンプレックスがあるから、聞いているときは、頭では分かるんだけれど、心では積極的になれなかった。でも、実際にやってみると、なんとなくその感じが分かってきた気がする。
相手のマイクをとってはいけない。デュエットにしてはいけない。

うまくきければ、相手は自分から深めていく。
思考・情報→気持ち・感情→身体感覚→人生そのもの

復唱。
気持ちや感情。
複数回出てくる言葉
日本語は語尾に大切な気持ちが現れる
自分の気持ちを聞く暇があったなら、相手の気持ちを復唱する。
復唱してから考える。
おそらく、僕が復唱すべきと思ったところは、そう外していない。だから真摯に復唱をする。言葉をかえてコントロールすることがどれだけ相手を尊重していない行動か。

いたわりやねぎらいは、全部聞き終わった後でいい。
下る感情についていく。
感情を出してもらえば出してもらうほどついていく。
人の気持ちは下まで落ちたらぜったいあがっていく。これを信じる。
(僕はよかれと思っていわわりやねぎらいを口に出してしまう。)

オンラインセッションをした翌週から、保護者や子どもたちとのオンラインセッションが始まった。
これはきくトレーニングの場としては格好の機会で、僕は輪唱をするような復唱を心がけている。少しだけ音楽のメタファーが、こういう感じかなとつながる瞬間を感じられるようになってきた。
そして、僕が復唱をするだけで、特に質問などを投げかけなくとも相手が自分から話をすすめていく感じも分かってきた。
と同時に、このうまくいっている感にも危うさを感じている。
相手の話を聞きたいって心から思っていなければ、輪唱は響かないのだろうと思うからだ。
輪唱が、ただの表層のテクニックになったら、それは伝わってしまうと思う。
きちんと相手に向かい合って「きく」。それを叶えるためのテクニックという順番を間違ってはいけない。

2020年5月4日月曜日

うれしい

入学式が再延期になってしまった1年生に、入学を祝うささやかな式をオンラインで行うことにした。
そこで「小学校の歌(校歌)」を流すことにした。はじめはCDを流すことを考えたが、歌声を休校中の2年生から6年生までの子どもたちに募集し、パソコンで重ねて在校生からの合唱の贈り物にすることを音楽の教員が提案した。もちろん賛成し、いっしょに取り組むことにした。
緊急時の連絡の仕組みを使うことははばかられるので、ホームページにそのことを書いて掲載した。どんな思いで募集するか、丁寧に書いた。アイフォンの場合とアンドロイドの場合の音声のとり方も書いた。
それでも集まるか不安だった。ひとりで歌うこと、それを録音すること、メールに添付して送ること。それぞれハードルが高いと考えていた。やってみたい気持ちはあっても、実際にやることとは距離あるように思った。
掲載から1時間後に一通目の手紙がきた。6年生の男の子。1年生への簡単なメッセージが添えられたメールに添付された音声データを開く。美しい声だけれど、高音を苦しそうに、それでも一生懸命に歌っている。聞いていて涙がでてきた。うれしくて涙が出た。まだ会っていない、でも自分の学校に入ってくる1年生のために、12歳の男の子が、いっしょうけんめいに歌を録音して送ってきてくれたのだ。こういう心をこめたものに触れることに飢えていたのだろう。休校中にいくぶん学校を自分の中に美化しているのかもしれない。でも、僕のなかで学校という場所は、そういうあたたかさがところどころにある場所で、だから学校が好きなんだ。
彼が歌う姿を思い浮かべながら歌を聞くと、本当に心が震えた。
「10人集まれば合唱ぽく聞かせられますよ」そう音楽教員は言っていたが、1日半ですでに60人から歌声が届いてきた。あと1日でどれだけ集まるだろうか。もちろん、送りたくても送れない子もまた、まだ会えない1年生のことを思っているのだろう。
僕はあの子たちをほこりに思っている。尊敬している。早く会いたい。