2020年10月17日土曜日

秋を拾い集め、味わい、楽しむ どんぐりの授業

今月に入ってから、どんぐりの授業を楽しんだ。

まずはどんぐり集め。どんぐりの一覧が描かれたイラストを頼りに、校内にあるどんぐりを拾い集める。
種類の判別は、形と大きさ、それに帽子の形状もポイントになる。
「どんぐり」とひとくちに言っても、校内にはまるまるとした͡クヌギもあれば、スマートなマテバシイ、それに小柄なシラカシ、コナラ、忘れてはいけない栗。様々などんぐりが落ちている。
なんていかにもどんぐりに詳しいふうに書いたけれど、僕も子どもたちと同じく、イラストを頼りに拾ったどんぐりの形や大きさ、帽子の形状をもとにその種類を判別したのだ。クヌギなのかアベマキなのかは実はよく分かっていない。

秋らしい高い空のしたで、子どもたちが木々に見守られながら、その足元のどんぐりを拾い集める姿は、なんとも平和で、心が穏やかになる。仕事についていろいろな悩みはいつでもついて回るけれども、この景色のなかの子どもたちを見たら、すべてを呑み込んで、溌溂と彼らと向かい合いたいと思える。日なたは温かく、それでもずいぶんと涼しくなった風が子どもたちにふく。子どもたちはどんぐり拾いに夢中で、風の涼しさには気づかない。季節の変化に敏感なのは、季節の傍にいるなのかもしれない。季節の真ん中にいる子どもたちは、それをあまり気にしていない。

どんぐりのなかでも特にマテバシイはとっておきだ。「待てばシイの実のようにおいしくなる」が名前の語源だという説もあるらしい。少しでレンジで温めると、少し苦みのある歯ごたえを感じる栗のような味と食感を楽しめる。
苦みに舌を出す子どももいた。「それが秋です」となんとも理不尽なことを言うと、なんとなく通じたのか、笑顔になった。みんなでいっしょに秋を味わうことができた。

週のはじめは、ため込んだどんぐりでたっぷり工作を楽しんだ。前日に煮沸消毒をしたら、部屋中がアクの苦みでいっぱいになって、参ってしまった。
きりを使って頭に穴をあけ、そこに楊枝をさせば、どんぐりゴマのできあがり。白いペンと名前ペンでトトロ。ここまでは僕が教えたけれど、楊枝とペンで子どもたちは様々なものを生みだしていた。

その後の算数の授業では、引き出しの中からコマを出していじりだす子がいて、「だめだよ。しまっておくれ。」と注意した。直後に別の子が同じことをしだして、苦笑い。いや、うれしくて笑う。そりゃ算数より自分の作ったコマで飽きるまで遊びたいよね。それでいいと思う。本気で怒ったりしないよ。きっと子供もそれを分かっている。
朴訥としたどんぐりの授業だった。それで何が身に着いたのとか簡単に言葉で表せないんだけれど、簡単に言葉で表せないことを日々積み重ねていくことが、長い目で見れば子どものこれからを豊かにしていくと思う。





2020年9月12日土曜日

地味な滋味を味わう

 毎日絵本の読み聞かせをしている。

去年もたまに読み聞かせをしていた。
担任ではなかったが、比較的時間に余裕のできやすい雨の日の朝に、担任が教員室に行っている隙に、1・2年生の教室に突然お邪魔し、おもむろに読み聞かせを始める「雨の日の読み聞かせおじさん」という妖怪になっていた。
それはそれでとても楽しかった。
ただ、そういう突発的な読み聞かせのときは、わりかし惹きつけやすい内容の本ばかりを選んでいたように思う。突然の坊主頭の読み聞かせを楽しい時間だと思ってほしかったからだ。
「だめよ、デイビット!」シリーズは間違いなかったし、アランメッツの「はなくそ」はどの教室で読んでも、笑顔の叫び声があがった。刺激のある作品をどこか意識的に選んでいた。

クラス担任に戻り、毎日同じ子どもたちに読み聞かせできるようになった。
コロナの対応で、なかなかじっくり読み聞かせられるゆとりのある時間がとれないことは悩みだ。
そんな状況なので、比較的早く読める福音館書店の「こどものとも」「かがくのとも」を手に取るが増えている。
そして、これまでのように刺激の多い作品ばかりを読むことはなくなった。これまで読んできた本に比べ、地味に見えるものも読み聞かせるようになった。
たとえばこどものとも5月号「ぼくのつり」。父親と早起きしてつりに行く少年の様子が描かれる。
子どもたちにとって退屈にならないだろうか心配になった。

いざ読み聞かせると、子どもたちはじっと絵本のほうを見つめていた。
読み聞かせる僕も、だんだんと日が昇っていく時間の経過を淡々と描く絵の美しさを感じていた。
地味に見えた絵本の滋味を子どもも僕も味わっていた。
笑い声のような分かりやすい反応は起きなかったが、読み終えたときに緩やかな満足が教室を満たしていることは感じられた。

ああ、大切な絵本のよさだなあと思った。
どうしても刺激の強いもの、反応の起きやすいものを手にとってしまう。言い訳になるが、これは僕だけの傾向でないように思う。大きく言えば世の中全体の傾向でもあるように思う。そのうち地味に見えるものは、世界から駆逐されていってしまうのではないだろうか。

でも、薄味にもたしかな味わいがある。
それを味わえるようにしていくことが、学ぶことの大きな意義なのではないか。日々のささやかな美しさに気づけることは豊かさと言えるのではないだろうか。
絵本の読み聞かせをしていて、そんなことを想う。
地味な滋味を味わえるように、選書していきたい。

ああ、それから、絵本には、理解を越えたナンセンスなものもあって、それも魅力だ。
来週のどこかで「とらのゆめ」を読みたい。
https://www.fukuinkan.co.jp/book/?id=6564

2020年9月10日木曜日

くうそうえにっき

「あさおきたら だいすきな ちょこれーとの うみでおよいでた。うきわは どーなっつの うきわで びっくりしました。」 


たまには実践(授業)の話。

1年生では毎年夏休みには絵日記の課題が出されている。

学校の文化である日記、その第一歩となる課題である。

今年はコロナの影響で、絵日記が書きたくなるような出来事がどの家庭でも少なくなるだろうと思い、例年よりも絵日記を課す枚数を減らし、その代わり「くうそうえにっき」をかかせることにした。

(普段の夏休みだって、家庭の状況により子どもの過ごし方はまちまちで、慮ることは必要。)

事前の授業では、みんなで大ぼら吹きを目指す活動をした。

「嘘をつくことをほらを吹くとも言います。今日はみんなで大ぼら吹きを目指そう。嘘をついて人をだますことは悪いことだけれど、今日は特別に何でもかんでもほらをふいてオーケーです。できるだけ大きく大きくほらをふこう。ただ、聞いた人が悲しくなったり、苦しくなったりするほらはやめてね。聞いた人が愉快になるような大ぼらを考えてみよう。」

ひとり、またひとりと手が挙がっていって、その日は大盛り上がり。

そんな活動を経て、夏の課題「くうそうえにっき」が子どもたちに課された。


そして提出された日記の書き出しが、冒頭の文章。傑作。

他にも、恐竜の時代に行ったり、犬になったり、あさがおの芽が開くと中からちょうちょが生まれたり、読んでいてたまらなくなる傑作ぞろいだった。

子どもたち自身も楽しんで取り組んだことが作品から伝わってくる。

予備にもう1枚、くうそうえにっき用のワークシートを配っていたが、クラスのほとんどの子が2枚の作品を仕上げていた。


読んでいてたまらなく楽しんだことは、興奮を隠さずに子どもたちに伝える。

文章を書いて表現することで、人の感情を動かすことを知ってもらいたいからだ。

そして、それぞれの作品にコメントを添えて返す。


僕だけが楽しむのではもったいない。コメントも僕のものだけでは、足りない。

子どもたちもお互いのくうそうえにっきを読み合った。

読んだ感想は付箋に書いて送り合う。そのときには「えんぱわーこめんと」を心がけるように伝えた。

「えんぱわーっていうのは相手を力づけることだよ。もらった相手が元気になるようなコメントを目指してみよう。」

このポジティブなフィードバックを送り合う活動は、とても意味のある活動だと思っていて、続けている。

(その活動についての報告はこちら。

https://www.u-gakugei.ac.jp/graduate/professional/upload/a_report_2019_17.pdf

果たしてそれが1年生にもできるのか心配だったが、ほとんどの子が意図通りにポジティブなコメントを送っていた。繰り返していけばコメントの精度も上がっていくように思う。

何より、自分の作品を読んで、それに感想が来ることはうれしいものだ。

これから6年間、人によっては一生の習慣となるかもしれない日記の第一歩を、書くこと・読んで味わうこと・感想を受け取ることを通じて前向きに踏み出すことができたと思う。


最後にもう一編。ありっくとは僕のこと。

「あさおきたらありっくがでてきて そのまま こあらになった。そしてつぎにだんごになりました。そしてわたしがたべてしまったのです。ありっくだんごはわたしのおなかのなかでたすけてーといったのです。」









2020年9月7日月曜日

誰かのために

 金曜日に学校の飼育活動を担当する4年生が、1年生に動物たちを紹介する時間があった。チャボとウサギとヤギが学校では飼われている。

小屋から広いスペースに出されたチャボを、4年生のSくんが慣れた手つきで抱き上げている。隣では1年生のTさんが両手を出して構えている。
Sくんはその手の上に、チャボをそっと手渡していく。
「チャボの下の胸のほうを、やさしく支えるんだよ。必ず両手でね」その言葉がとてもやさしい。
Tさんがしっかりと抱きかかえられたことを確認し、添えていた手を少しずつ離していくSくん。おとなしく抱かれているチャボ。固まっていたTさんの表情がだんだんと笑顔に変わっていく。
「ふわふわしてあったかい!」気がつくと満面の笑みのTさん。
カメラを覗く僕も、おそらく満面の笑み。
帰りがけにSくんが近づいてくる。独り言のようにつぶやく。
「Tちゃん、喜んでいたね。かわいかった。あのさ、アリック、実は今日まで僕、チャボ抱っこできなかったんだよ。僕も今日が初めての抱っこだったんだ。」
嘘のような、本当の話。



2020年9月6日日曜日

20200904 石川晋連続講座「個別最適化の迷宮」

 金曜日は石川晋さんの連続講座「個別最適化の迷宮」に参加した。

ここ最近はめっきり「個別最適化」について懐疑的な気持ちになっていたので、どんな話が聞けるか楽しみだった。

はっきり言えば、個別最適化の悪口を言いたかった。


蓋を開ければ、もちろん昨今の個別最適化風なものに対する批評的な語りはあったけれども、それよりも、そもそも個別最適化とはなんなのだろうかということを考える時間になった。

初めの話は晋さんの「誕生日通信」の実践の話からだった。

「自分がやってきた実践の中で、個別最適化はどれかといえばこれなんだと思う」

クラスの誕生日の子どもひとりに向け学級通信を発行する実践。

子どものエピソードが書かれ、その子に送るために探された詩が載り、また晋さんも子どもの名前の頭文字から始まる詩を書いて送る。

「ひとりの子どものためのことが全体にも何かしらの影響を与えていく」

それを晋さんは個別最適化なのだと語った。


個別最適化を初めて知ったのはいつだろうか。

苫野さんの本を読んだときかもしれない。

僕の解釈ではこんな感じだった。

学級の中には様々な子がいて、いわゆる落ちこぼれもいればその逆の吹きこぼれもいて、結局現状の一斉授業はクラスの本の一部の子ども(学力で言えば中位からちょっと下位くらい)がターゲットになってしまっている。

そうではなくて、自由進度や子どもの選択を広げていくことを認めていけば、子どもひとりひとりにとってよりよい学習ができるはずだ。

そのような考え方のもと、取り入れられることが個別最適化だった。

とても共感した。

自分自身の子ども時代を思い出しても心当たりはあったし、教員として抱えているジレンマもあった。

それで自分も授業のなかで個別最適化を意識するようになった。


ただ、GIGAスクールやコロナ禍のオンライン授業のあたりから、この個別最適化の文脈が変わってきているという漠然とした違和感があった。

「個別最適化=パソコンを使ったAIチックな自学自習システム」みたいに単純なものにしていく傾向を感じて、自分の心が離れていった。

それはまるで、新自由主義的なものに教育が絡めとられていく流れにしか思えなかった。

それに個別化が孤立化になっているように思い、これまで学校で大切にしてきた(と自分は考えている)集団だから起きる麗しきカオスみたいなものがないがしろにされている気がしたのだ。

個別最適化が単なる効率の良いドリル学習のことになっている印象を受けたのだ。

それ自体は否定しない。でも、それが素晴らしくて、これからの学校の学習のど真ん中なんだと言われると、じゃあ自分の情熱を傾けることじゃないだろうなと思ってしまっていた。


こうやって振り返ると、自分自身が世の流れに消極的に迎合していたことに気づく。

世の中の一部の流れに自分自身の解釈がゆがめられ、ひとりで心を離していたんだろう。


晋さんが語ったように、個別最適化は従来の教員がみんな持とうとしていた「子どもたち一人ひとりへの力強いまなざし」に支えられるべきものだと思う。

子どもたちをひとりひとりの複雑で難解で愛すべき存在として受け止めて、そのうえでじゃあどうしていこうかって一緒に考えていくうちに、周りも巻き込まれていく。それが個別最適化だと僕は考えたい。


「そうしたら、この迷宮から抜けられるって、そう思いませんか」

そう言って笑った晋さんはとてもかっこよくて、思わず拍手をしてしまった。

2020年5月17日日曜日

2020.5.9マーキーオンラインセッション「きく」トレーニング

5月9日にマーキーのオンラインセッションを受けた。
テーマは「きく」トレーニング。僕に欠けていることだ。
マーキーのすごさは2月にあった清瀬市での講座で痛感していたから、この日がとても楽しみだった。
事前に15分の逐語記録をとることを課された。
同僚の西本さんに相手になってもらう。
そして、その日の夜にそれを文字起こししていく。
それは初めての体験だった。
自分のあいづちや投げかけ、相手の答えを文字に直していくと、気づくことがたくさんあった。
大きな発見は、実は相手に与えているものは、言葉以上に声のトーンや話し方に現れるのだなということ。
自分にとって都合が悪い話題でたときの、合いの手の「はい」は声がとても低かった。

今回はマーキーに提出するものだから、という意識があった。本当は普段通りに聞いたほうがトレーニングになるのだろうけれど、ふだんよりずっときくことに意識をしていた。
その結果、僕が話を促していないのに、彼女の話が深まっていくのだ。これには驚いた。
これまで本などで読んだ、きく人がきくことに専念することで、引っ張り出さなくても相手は話を深めていくという現象が実際に起きた。ただ、それはやはり西本さんというすてきな人によるところが
実はこれは話を聞いていたときには気づいていなかった。
実際に文字起こしをして気づいたことだった。
ああ、このオンラインセッションは、セッション前にこうして逐語記録をとることによって、その目的はいくぶん果たされたんだなとその時は思っていた。結構本気で思っていた。今思うと、それは盛大な勘違いだった。

オンラインセッションが始まる。
ときおり鳥の鳴き声が聞こえる。
本棚の前に大きめのホワイトボードを1枚置いて、マーキーが話す。
ここ最近のお互いの状態から話し始める。
マーキーのファシリテーター廃業の話は興味深かった。
「生まれ直す」という強い言葉を使った。
生まれ直せるのは、ひょっとしたら、自分のなかに芯があるからじゃないかと思う。
職業や立場を捨てられるのは、捨てたとしても残るものがあって、そこからまた芽をはやすことができるという確かな思いがあるんじゃないかと思う。
すごく原始的な自信のようなものだ。
ああ、僕はいつもこうして、自分なりの解釈で、自分なりの言葉に直して自分自身の納得を繰り返していく。
それはもう癖のようなもので、こびりついた習慣だ。
無自覚の習慣を言葉に直せたことで、それを意識化に、手元に置けるといいんだけど。

いざセッションの内容を振り返り始めようと思ったのだけれど、どうにもうまく言葉にできない。
言葉にしようと闘うこともできない。

やったことは、2人で音声を聞きながら、逐語禄を少しずつおっていく。言葉に直せばただそれだけのことだ。
でも、それは重い時間だった。

セッションの直後は、感情があふれてしまって、熱した鉄の棒のような状態で、うまく向かい合えない気がした。
振り返って、あの時間と気持ちを留めなきゃいけないって思いは常にあったんだけど、あふれた感情を無理に言葉に直すことも、なんだかしっくりこなくて、そのうち忙しさが押し寄せてきて、ついには1週間がたった。

セッションの後半からもう感情はあふれていた。
マーキーといっしょに自分の受け答えを、丁寧に時間をかけて紐解いていくと、そこには受け答えと言いながら、「受け」ていない自分がこれでもかというほど浮かび上がってくる。
結局僕は自分に寄せていく。
耳を傾けているのは、相手にではない。自分の気持ちに耳を傾けている。
相手の言葉を自分のためにだけしか聞いていない。
相手をとてもないがしろにしている自分の姿がくっきりと目の前に現れて、これまで聞いたふりを重ねてきた大切な人たちの姿(主には妻だ)が浮かび上がってきて、申し訳なさに胸がつぶされそうに苦しくなった。

これからのためのメモを残しておく。
マーキーは人の話を聞くことを、音楽をメタファーとして説明した。
いわく、聞くことを音楽として捉える。
輪唱、それは完全復唱すること。
相手のリズムに合わせて、あいづちをうっていく。相手のリズムの邪魔をしない。
僕は歌や音楽にコンプレックスがあるから、聞いているときは、頭では分かるんだけれど、心では積極的になれなかった。でも、実際にやってみると、なんとなくその感じが分かってきた気がする。
相手のマイクをとってはいけない。デュエットにしてはいけない。

うまくきければ、相手は自分から深めていく。
思考・情報→気持ち・感情→身体感覚→人生そのもの

復唱。
気持ちや感情。
複数回出てくる言葉
日本語は語尾に大切な気持ちが現れる
自分の気持ちを聞く暇があったなら、相手の気持ちを復唱する。
復唱してから考える。
おそらく、僕が復唱すべきと思ったところは、そう外していない。だから真摯に復唱をする。言葉をかえてコントロールすることがどれだけ相手を尊重していない行動か。

いたわりやねぎらいは、全部聞き終わった後でいい。
下る感情についていく。
感情を出してもらえば出してもらうほどついていく。
人の気持ちは下まで落ちたらぜったいあがっていく。これを信じる。
(僕はよかれと思っていわわりやねぎらいを口に出してしまう。)

オンラインセッションをした翌週から、保護者や子どもたちとのオンラインセッションが始まった。
これはきくトレーニングの場としては格好の機会で、僕は輪唱をするような復唱を心がけている。少しだけ音楽のメタファーが、こういう感じかなとつながる瞬間を感じられるようになってきた。
そして、僕が復唱をするだけで、特に質問などを投げかけなくとも相手が自分から話をすすめていく感じも分かってきた。
と同時に、このうまくいっている感にも危うさを感じている。
相手の話を聞きたいって心から思っていなければ、輪唱は響かないのだろうと思うからだ。
輪唱が、ただの表層のテクニックになったら、それは伝わってしまうと思う。
きちんと相手に向かい合って「きく」。それを叶えるためのテクニックという順番を間違ってはいけない。

2020年5月4日月曜日

うれしい

入学式が再延期になってしまった1年生に、入学を祝うささやかな式をオンラインで行うことにした。
そこで「小学校の歌(校歌)」を流すことにした。はじめはCDを流すことを考えたが、歌声を休校中の2年生から6年生までの子どもたちに募集し、パソコンで重ねて在校生からの合唱の贈り物にすることを音楽の教員が提案した。もちろん賛成し、いっしょに取り組むことにした。
緊急時の連絡の仕組みを使うことははばかられるので、ホームページにそのことを書いて掲載した。どんな思いで募集するか、丁寧に書いた。アイフォンの場合とアンドロイドの場合の音声のとり方も書いた。
それでも集まるか不安だった。ひとりで歌うこと、それを録音すること、メールに添付して送ること。それぞれハードルが高いと考えていた。やってみたい気持ちはあっても、実際にやることとは距離あるように思った。
掲載から1時間後に一通目の手紙がきた。6年生の男の子。1年生への簡単なメッセージが添えられたメールに添付された音声データを開く。美しい声だけれど、高音を苦しそうに、それでも一生懸命に歌っている。聞いていて涙がでてきた。うれしくて涙が出た。まだ会っていない、でも自分の学校に入ってくる1年生のために、12歳の男の子が、いっしょうけんめいに歌を録音して送ってきてくれたのだ。こういう心をこめたものに触れることに飢えていたのだろう。休校中にいくぶん学校を自分の中に美化しているのかもしれない。でも、僕のなかで学校という場所は、そういうあたたかさがところどころにある場所で、だから学校が好きなんだ。
彼が歌う姿を思い浮かべながら歌を聞くと、本当に心が震えた。
「10人集まれば合唱ぽく聞かせられますよ」そう音楽教員は言っていたが、1日半ですでに60人から歌声が届いてきた。あと1日でどれだけ集まるだろうか。もちろん、送りたくても送れない子もまた、まだ会えない1年生のことを思っているのだろう。
僕はあの子たちをほこりに思っている。尊敬している。早く会いたい。

2020年4月27日月曜日

4月25日26日

土曜日
1時から準備をし、2時から先週に引き続き、友だちの子どもたちにオンラインで授業をやらせてもらった。
まずは先週やった赤ずきんちゃんじゃんけん。
体を動かすじゃんけん系のアクティビティをリズムよくやることは遅延の関係で難しいことが分かっていたので、ただ体を動かし心をほぐす目的でやる。
名前と好きな食べ物を言う自己紹介。今回はミュートを使った。
ミュートを使うどうか自分のなかで迷いはあるが、やはりそっちのほうが断然よく聞こえる。
そこから読み聞かせ。
「はなくそ」
心をほぐすつもりでポップな本をチョイス。
でもここでしゅうすけから「今日は絵を描くんじゃなかったのかよー。」という声が。
そうか、彼らは絵がかきたいのか。うれしくなる。
ただ読み聞かせはどの子もじっくりと耳を傾けてくれる。
途中、声が聞こえづらいという話があった。
ヘッドセットは必須だ。
本題の「わたしの好きなもの」を読み聞かせる。
そして「じゃあ、みんなの好きなものをかいてみてください」。
画面のなかの10人近い子どもたちが一斉に絵を描きはじめる。
できあがったら発表を繰り返しながら30分。
しっかり集中していた。
最後にひとりずつが描いたものを見せながら発表。
あまりきれいに見えないけれど、言葉で付け足してもらい、こちらも言葉を返していく。
先週に比べ、授業らしくなった。
子どもと教員の双方向のやりとりも生まれた。
一方で子ども同士のやりとりは、非常に難しいと考える。
一度自分を挟んで復唱のような形でないと難しいと感じた。

5時からはおバカ企画。オンライン銭湯。
大好きな国立のファシリテーターハタノさんの考案。
お風呂につかりながらzoomをつなぐというバカ企画だ。
心のリフレッシュになったように思う。
部屋で授業をする準備などをぐたぐだ考えていたら、気がついたら深夜になっていた。

日曜日
2時から主催のオンライン読書会。まどぎわのトットちゃん。
主催と言っても、準備等は全部鉄兵がやってくれた。
トットちゃん、今読んで本当によかった。
子どもが時間割にとらわれず、自ら学びたいことを選んで没頭していく描写なんて、現代の先進的とされる取り組みを戦中にやっていたことに気づく。
なんと素敵な学校だろう。
読書会は11人参加。
なかなか混迷を極めそうなメンバーだったけれど、それがなかなか有意義だった。
途中から同級生トークになってしまったけれど、それも含めてよい会だったのじゃなかろうか。
「自分のクラスにトットちゃんがいたら」とか「じゃあなんでトモエ的な教育がいま現代のスタンダードにならないの」とかじっくり考えたい問いはどうしても浮かんでしまう。

夜は教職大学院の友人とZoom飲み。
2時間半、終始コロナ対応の話になってしまう。
でも、建前無しの本音の話ができる友人の存在はありがたい。
「もう白旗。意味のあることなんて何もできないでしょ。」
「それでも何かやりたいんだよね。」
「それでも何かやっているところを見せなきゃでしょ。」
「そういうこっちはやっているっていうアピールのためにやるのってどうなの。そういうのやめなよ。」

2020年4月25日土曜日

合唱企画

木曜に行われた合唱の企画について書く。
これはZoomを使って、離れた場所にいる2年生から6年生の有志が、「小学校の歌」(校歌にあたる歌)を合唱するという企画だった。
どうしてもタイムラグがあり、音楽室でやっているような合唱にはならない。
またZoomの機能を使って録画してみると、全員の声を平等に拾うわけではない(会議などでは助かるのだが)ので、うまく合唱には聞こえない。
月曜日に教員でやった事前の実験では、なかなかのへべれけだった。
それを工夫して乗り越えようという企画だ。

企画が始まる。
Zoomの管理者として参加する。
オンライン上の開室と同時に多くの子がログインしてくる。
それはまるで音楽室を開くと同時に子どもがなだれこんでくるあの光景を思い浮かばせた。
しかも怪我の危険がないので「歩いて落ち着いて入りなさい!」なんてがなる必要はない。
次々に参加者に名が連なってくる様子をうれしく見ていた。
また2年生から6年生、5学年に子どもたちがまたがっていることもうれしかった。
驚くことに、開室から10分ほどで100人の定員がうまった。
想定していなかったわけではないけれど、こんなに参加があるとは思わなかった。
実に全校の4人に1人以上の子が参加をしたことになる。
普段の授業では学年ばらばらで100人の子たちがいっぺんにひとりの教員に教わるようなことはしない。
でも、こうしてそれが行われている。
この状況がなければ思いつかなかったし、この状況だから実現したことだ。

タイムラグの説明をIさんがしたあと、まずはそれぞれ何も気にせず歌ってみる。
オンラインの合唱のいいところは、気兼ねなく声が出せることだ。
僕は音痴の自覚があるし、自分の声にコンプレックスがある。
人前で歌うことは好きではない。
歌うことは本当は好きなんだけれど。
オンラインだといつもより気軽に声が出せる。
誰がどこで声を出しているかがまぎれるからだ。
人によりけりなんだろうけれど、これは意外な発見だった。

録画した合唱を聞いてみる。
かなりずれている。
聞いている子どもたちの表情を画面で見ると、あまりのへべれけさに表情がくもっている子もいたが、笑顔の子も多かった。

「どうすればいいだろう?」という問いに、チャット機能や手元の紙で返事をする子どもたち。
少しばかりの双方向性が保たれる。

Iさんから「次は指揮に合わせてみよう」という合唱2回目。
また録画したものを聞く。
「さっきより合っていた!」という声があがる。
うれしそうな子が多い。
普段の合唱と比べると、まるで歌唱技術的にはおそまつなんだろうけれど、そこには確実に声を合わせていく喜びがあった。
自分たちの合唱をしっかり聞いてもいた。
これって学んでいるなと思う。
技術指導はできなくても、広義の合唱の学びがあったんじゃないかと振り返って思う。
今までやらなかった、考えなかった方法を、今までにない状況の制約の中で採用することで、今までにない学習がそこに浮かび上がってくる。
そんなことを見出すことができた。

次に、Iさんは100人の参加者のなかから子どもたちに指揮者を募った。
手を挙げた数名のなかの一番小さな学年の2年生のHくんをIさんは指名した。
ああ、この場面も好きだ。
もし実際の音楽室だったら、自分より体が大きい上級生に囲まれたなかで、多くの視線が行き交う中で、Hくんは手を挙げただろうか。
あげられたらいいなとも思う。でも、あげられなかったかもしれないなとも思う。
Hくんの指揮で歌う。
僕も画面の前でしっかり口を開け、声を出して歌う。
みんなが画面でいっしょになっているんだけれど、身体は自分の個人の部屋にあり、変な安心感があった。

録画したものを流すと、自然とああだこうだと感想がもれてくる。
拍手をもらったHくんはうれしそう。
そりゃそうだ。100人のいろいろな学年の子から拍手をもらえるなんて機会はそうないもの。

今までにない学びが生まれていた1時間だった。
発案から1週間で実現したこの企画、おそらくこの状況になければ1か月は吟味されてから、丁寧な準備を経て、ある程度の成功が見込まれてやっと実現したことだろう。
でも、この状況だからこそ、前例のない状況だからこそ前例のないことが試しやすくなっている。
そして前例がないことは、新しい学びを生みだす。
そんなことを実感できた時間だった。
もちろん歯がゆいことも多いんだけれど、今だからこそできることっていっぱいありそう。
ああ、そういえばこの企画ももっと歌を生業とする人と一緒にやれたらと思う。
頭に思い浮かぶ方がいるし。
もう少しで自分の裁量でできる時間がやってくる。
そのとき僕は何をするんだろう。考えよう。

4/21~24

4/21
午前中は飼育当番やら動画撮影やら文集づくりやらで出勤。
午後は若手教員と「せんせいのつくり方」のワークを楽しんだ。
意外とみんな肩に力が入っていないんだなとうれしくなる。
となると、自分のあの20代の気負った感じはなんだったんだろう。
今のフラットに子ども、保護者と向かい合う姿勢は、たどりつくまでに10年以上かかったんだけどな。

水曜日は午前午後共にオンライン会議。
夕方はオンラインでPA。

木曜日
午前は出勤し、4年生の文集づくり。
午後は伊藤企画。これについては別に振り返る。
Nさんと打ち合わせをし、5時から別の打ち合わせ。
いろいろやっている。

夕方、導入を決めていたロイロについて、web版の使い勝手の致命的な悪さが報告される。
きちんと報告してくれたYさんに感謝。
急いでグーグルクラスルームの検討を提案する。
Yさんに打診する。

金曜日
本当は出勤すべきではないので、出勤の足が重い。
どんどん出勤者が増えていて、そのひとりが自分となっていて、社会を構成する一員としての申し訳なさがある。
これがゆるみなんだろうなと思う。
あさいちで自習室を開設する。
自習の合間にイノカの高倉さんが送信しているサンゴ礁の水槽の動画を見せる。
そして、「多くの人が今君たちが置かれている状況をどうにかしようとしている。」という内容の話をする。それでどうというわけではないし、何でその話をしようと思ったか分からない。衝動的にしてしまった。
9時の回の最後に、長田弘の「世界は一冊の本」の詩を読み聞かせる。
いまの高学年の彼らにどうしても送りたくて、古本を購入していたのだ。
その後、Yさんとグーグルクラスルームの検証に入る。
教員側は使いやすいんじゃないかと思う。
子どもたちの協同学習を考えなければ、子どもとへの課題提示、課題のやりとりはロイロと変わらずできる。
ロイロでやりたかったことはできる印象だ。
僕としてはグーグルクラスルームのほうが、添付できるものも多く、広がりがありそうで、使ってみたい気がする。ロイロのノートがあまりしっくり来ていないのかもしれない。
ロイロは、ロイロ自体で勉強する印象なんだな。

午後はだらだらしてしまった。
あまり体調がよくなかった気がする。

2020年4月20日月曜日

「当たり前のことを当たり前にする」

学校でよく耳にする言葉だ。
どこかでそれに違和感を持つことがあった。
なんでだろうか。
自分が、「当たり前」という言葉を子どもに使わないのはなぜだろうか。

その言葉は誠実ではないものを感じるからだ。
フェアな言葉じゃないのだ。

だって、その当たり前は誰にとって当たり前なのだろうか。
誰が決めた当たり前なんだろう。
それは、その言葉を使う本人に他ならない。
教員から子どもに使う場合、その当たり前を規定しているのは教員だ。
それなのに「当たり前」という言葉は、まるで世間一般が暗黙で規定していることのような響きがある。
教員という個人の規定なのに、まるで世間一般の規定のような響きを持たせることは、フェアじゃないと思うのだ。
そして、世間一般の大きさは、有無を言わせない圧力がある。
例え納得できなくても呑み込まなくてはいけないような、とても乱暴な言葉のように思うのだ。

それを逆に子どもから教員に使ったらどうなるだろう。
「先生、当たり前のことだから当たり前にしてよ。」
とても乱暴に聞こえないだろうか。
僕は子どもが自分に使っても受け止められる言葉を使っていきたい。

自分にっとて当たり前のことでも、「当たり前」という言葉は使わず、たとえまどろっこしくても、相手に伝わるように丁寧に言葉を尽くすことが、教員でありひとりの大人としての誠実でありフェアな態度だと思う。