2021年1月10日日曜日

旅を回顧する

この文章を書いている2020年8月、本当なら日本を飛び出し旅行を満喫しているはずだった。コロナの影響でそれは叶わなくなった。この苛立ちをどこにぶつけようか。
振り返れば、2000年から2010年にかけて、20代の頃はいつもひとりで旅に出ていた。旅行ではなく「旅」なんて言うと大げさな気もするけれど、あれから10年が経って振り返ってみると、あの日々はやっぱり旅行ではなく、旅と言うほうがしっくりくるのだ。
無計画で無鉄砲な旅を回顧したい。

あの頃、長期休みのたびに、リュックをひとつ背負って、世界のあちこちにでかけていた。目的地は主にアジア。そのなかでも、中国や台湾、そしてインドやバングラデシュには、複数回足を運んだ。それからタイのバンコクはインドやヨーロッパへの経由地として何度も利用した。
当時、バンコクで航空券を手配すると、日本では買えないようなめずらしい航空券が割安に手配できた。日本人経営の旅行会社がいくつかあったので、手配もそこまで難しくなかった。今のように航空券をすぐに検索できるのではなく、膨大な航空券が記載された表の中から希望する航空券を探し出す。その作業も楽しかった。
2005年にトルコのイスタンブールから入って、フランスのパリから出るエミレーツ航空の割安の航空券を見つけたときはとびあがるほどうれしかった。旅の途中にバンコクで宿泊するときは、チャイナタウンに出かけ、900円くらいで食べられるふかひれスープを味わうことが好きだった。

「旅の面白さは荷物の重さに反比例する」そんな旅人の格言を信じていたから、たとえ3週間の長い旅でも、シャツとパンツは3セットまでと決めていた。部屋で洗濯物を干すときに使う洗濯紐と、手洗いのための洗剤の粉は必ず持っていった。宿の周りで安い洗濯屋を見つけるとうれしくてたまらなかった。

今のようにはインターネットからたくさんの情報をすぐに引き出すことはできなかった。スマホはなかったし、ネットをするには街中でネットカフェを探さなくてはいけなかった。ようやくネットカフェを見つけても、速度が遅かったり、そもそも日本語が表示できなかったりすることも多く、情報にアクセスすることは容易ではなかった。情報源は主に図書館で借りた地球の歩き方だった。それを読み込んではいたけれど、あえて旅程を細かく立てることはしなかった。ひとりだから許される気楽な行き当たりばったりを楽しんでいた。

初めての街に着くそのときが一番わくわくした。好きな到着の仕方は夜行列車。カーテンを開け、車窓に飛び込んでくる陽の光と聞きなれない言葉が行き交う喧噪で朝が来たことを知る。知らない街の知らない駅のホームに列車が着く。列車から降りて、駅の出口を探す。駅から一歩外に踏み出す。そして街を見渡すとき、決まって気持ちが高揚した。ガイドブックの地図から街の様子を想像するのだけれど、その想像が当たったことなんて1度も無かった。目の前には想像とは違う初めての街の風景が広がっていて、途方にくれ、とても心細くなる。矛盾するようだけれど、この心細さと胸の高鳴りは同時に襲ってくる。その形容しがたい妙な高揚がたまらなく好きだった。

宿は現地についてから探した。街行く人にたどたどしい英語で安いホテルの場所を聞いてまわる。たどり着いたフロントで部屋を見せてもらうよう頼む。
貧乏旅行を気取っていたので、安宿ばかりを使っていた。今では考えられないけれど、アジアでは一泊1000円を下回るような宿を愛用した。その値段で泊まれる部屋は、たいていは部屋の中にベッドとテレビだけという殺風景な部屋であることが多かった。そこにエアコンがあるかないかで値段が変わる。それからホットシャワーの有無も重要。お湯が出るかどうかでも値段が代わるのだ。水シャワーもへっちゃらだった。若かったのだ。ときには見知らぬ人と相部屋になるドミトリーにも泊まった。深夜に鳴り響く大柄なロシア人のいびきがうるさくて眠りにつけなかったことも、今ではよい思い出だ。

そして安宿でさえ、必ず宿賃を値切っていた。なんともけちなようだが、それが当時世界中にいた日本人バックパッカーの流儀だった。旅先で日本人バックパッカーに会うと「どこどこの○○って宿は一泊いくらで泊まれるよ」なんていう会話が挨拶代わりだった。

00年代前半当時、電波少年というテレビ番組の海外ヒッチハイク企画の影響で、日本人バックパッカーは世界中に多くいた。バックパッカーの聖地であったバンコクはもちろんのこと、地球の裏側にあるメキシコシティでも日本人バックパッカーに会うことができた。

バックパッカーに人気の安宿には、必ず「情報ノート」という手書きのノートがあった。貼り付けられたチラシなどで、ずいぶん分厚くなったノートには、たくさんの人が様々な情報を書き込んでいた。安くておいしいレストランの情報は定番だったし、有名観光地にどうやったら安くたどり着けるかなどの情報も多かった。それから周辺の都市のおすすめの宿情報は次の目的地選びにとても役に立った。夜の街や薬物など危ない情報も書かれていた。そこには旅人の生の情報がこれでもかというほど書き込まれていた。それは地球の歩き方には書かれていない情報だった。顔も知らない誰かの書いた情報を自分のメモ帳に写す。そこから実際に行動に移すことにはある程度の勇気が必要だった。それはまるでRPGのゲームを生身で経験しているようだった。「イスタンブールのバスターミナルの54番のカウンターはソフィア行のバスのチケットが1番安い」「ブダペスト駅前のソフィテルホテルのカジノは20時に無料の軽食とドリンク有。食事代を浮かせることができる。要パスポート。」20年以上が経った今でも必死に写したノートの内容を思い出すことができる。

「日本人宿」と総称される日本人がたまり場とする安宿も世界中に点在していた。日本人宿には何か月単位で長期滞在する旅人もめずらしくなく、共同生活のような小さなコミュニティがあった。僕はこの日本人宿があまり得意ではなかった。ひとり旅ではひとりになりたかったのだ。情報ノート見たさにふらっとおじゃまするようなことはよくやっていたが(安宿の共有スペースへの出入りはすごくゆるやかであることが多かった)、実際に宿泊することは滅多になかった。それでもメキシコシティの「サンフェルナンド館」やイスタンブールの「ツリーオブライフ」、ソフィアの「バックパッカーズイン」など、良い時間を過ごすことができた宿もある。2004年にサンフェルナンド館で出会った大学生とはメキシコのプロレス・ルチャリブレを一緒に見に行ったし、2005年にツリーオブライフで出会った同い年のとおるくんとは情報ノートを頼りにバスを乗り継いで、ガイドブックにはのることのない現地の人だけが使うようなトルコの伝統的銭湯ハマムを探し歩き、一緒にサウナを満喫した。今になってみれば、もう少し日本人宿に挑戦してもよかったのかもしれない。面白い出会いがあったかもしれない。

天邪鬼な性格だったから、日本人宿があるようなバックパッカーに人気の街よりも、あまり人気のない街に積極的に足を運んでいった。

2006年に訪れた西インドは思い出深い。インド最大の都市であるムンバイから始めた旅の目的は、遺跡を見ることだった。子どもの頃から遺跡に興味があった。シュリーマンの古代への情熱を読み、同じように情熱に胸をたぎらせた。西インドで楽しみにしていたのは、アジャンタとエローラの石窟群を見ること。岩壁をくりぬいて作られた美しい仏教とヒンドゥー教の寺院群は期待を裏切ることのない素晴らしさだった。感動で胸が震えた。特にエローラの巨大な岩の崖を削って作られたカイラーサ寺院の美しさは筆舌に尽くしがたかった。1000年以上昔の人間がこれを生み出したかと深い敬意が自然と湧き上がった。
 
西インドの旅は、アジャンタとエローラが見られただけで、その目的は果たしたのだけれど、最大の感動はその後にあった。地球の歩き方に小さく「マンドゥ」という街の情報が載っていたのだ。街の名は聞いたことが無かった。旅人の間でも話題に上がったことはない街だった。遺跡群があるらしい。誰も行かない街だからこそ、興味をそそられた。

マンドゥへはムンバイからバスを乗り継いで10時間ほどかかった気がする。途中の経由地である2つの地方都市でバスを乗り換えることはそれなりに難儀して、さらに最後のバスは小さく暑く、狭い車内で膝の上にのせたバッグを抱えて背中を丸くしながら5時間。バスの車内でマンドゥへ向かったことを後悔していたことを覚えている。

マンドゥには夕方着いた。街の入り口付近にあった宿を訪ねた。宿探しをする気力はすでになく、通されたコテージは簡素だったけれど居心地が良さそうだったので、そこに決めた。その日はすぐに休むことにした。宿のレストランで食べたほうれん草とチーズのカレーがすばらしい味で、さらに空を見上げると満点の星空だった。小高い丘にあった宿をそっくり星空が包んでいた。ひとり旅の切なさは感動を伝える相手がいないこと。今こうして14年越しに文章でそれを伝えられて感無量だ。

翌朝宿で自転車を借りて、街を回った。街の真ん中にはメインロードが一本走っていて、あとは細い未舗装の道が葉脈のようにメインロードから伸びていた。街のあちこちにインドでは他で目にしたことのない巨大なバオバブの木が生えていて、赤茶けた乾燥した土地にその姿が映えて見えた。驚いたことに、30分も走れば街の端までついてしまった。マンドゥは本当に小さな素朴な街だった。店も街の中心のあたりにいくつかあるだけだった。しかし、とにかく素晴らしかった。その小さな街の中心には、イスラム寺院の跡があった。それだけでなく街のあちこちに18世紀までその地に存在していた都の跡が点在していた。そして城や寺院の跡が街を取り囲んでいた。遺跡は見世物としては一切整備されておらず、ただそこに朽ちてあった。広大な遺跡群の真ん中あたりに、ぽつんと小さな村があった。イスラム寺院の跡の上では朝のバザーが開かれ、自家製の野菜を広げたおばあちゃんは、その人懐こい笑顔を汚らしい異邦人の僕にも向けてくれた。遺跡は素朴な村の生活とともに、ただあった。その風景に感動した。どうしてかうまく言えないのだけれど、過ぎ去った栄華の跡に、朴訥とした小さな生活があることに、続いていく人の営みや歴史を感じ、それに感動したのだと思う。

旅に出ると、知ることがたくさんあった。

2004年の中国への旅も忘れることができない。2004年当時、サッカーのアジアカップをきっかけに、中国で反日感情が爆発しているという報道が連日なされていた。それに比例して、日本人の反中感情も高まっていたように思う。そんな2004年の12月に仙人の住む山、まるで水墨画の風景そのものと称される黄山という山に登ってみたいという目的で、僕は中国へと旅に出た。

反日感情が高まっているという報道はもちろん知っていたから、警戒していた。自分自身も、黄山への興味はあったけれど、中国人には良い感情は持っていなかった。しかし、そんな思い込みはいとも簡単に覆ることになる。

入国した上海では浦江飯店というクラシカルな高級ホテルに泊まった。なんて書くと格好いいが、今でこそ安宿が増えた上海には当時、安宿がまったくと言っていいほど無く、バックパッカーには、この浦江飯店の屋根裏のドミトリーに泊まることが裏ワザとして知られていた。おそらく本来は従業員用の寝床であろう部屋には、シャワーなんてものはなく、シャワーを浴びたければひとつ階を下って、従業員用のシャワーを借りなくてはいけなかった。シャワーにたどり着き、体を洗い流す。そのときに石鹸を持ってくるのを忘れたことに気づいた。日本を出てきてから何時間かが経っており、さっぱりしたいところだった。石鹸で体を洗えないことが残念で肩を落としていると、それに気づいたのだろうか、となりのシャワーブースで体を洗っていた中国人の青年が、だまって自分の使っていた石鹸を差し出してきたのだ。これには驚き、えらく感動した。自分にはそんな親切はできないからだ。「シェイシェイ」たどたどしい中国語で伝えると、まだ10代だろうか、若い青年ははにかむだけだった。

夜行列車で黄山まで移動した翌々日、いよいよ黄山登山に挑戦した。黄山の登山は階段などが舗装されていて、とても簡単だとガイドブックには書かれていた。それが実際はどうだろう。運が悪いことに、何年かぶりの大雪のあとで、それはなかなか過酷な登山になった。
ひとりで心細く、しかも途中の案内図は中国語でさっぱり分からない、でも、出会う中国人はひとり残らず道を説明しようとしてくれた。山の道の案内だ。街の道案内のようにはいかない。それでも誰もが必死に道を僕に教えようとしてくれた。
人々の善意に支えられ、なんとかホテルにたどり着くことができた。疲れ果てていて、大きな目的のひとつだった御来光の時間に起きられなかったことが今でも悔やまれる。

翌日は、黄山のふもとにある宏村という村落に向かった。宏村は周辺の近代化から忘れ去られた昔ながらの姿と生活様式を残す村だった。
宏村では気がつくとひとりの少女が道案内を始めてくれた。特に頼んだわけではない。気がつくと隣にいたのだ。宏村は世界遺産に登録されていたものの、発展から取り残された古い村で、中国政府はそこを積極的に宣伝していなかった。入村には許可とお金が必要で、その時は外国人観光客の姿をほとんど見ることはなかった。外国人がめずらしかったのか、そのかわいらしい15歳くらいに見えた女の子は、僕に中国語で一方的に話しかけ、手を引っ張って街のあちこちを案内してくれた。中国人は反日なんて誰が言っているんだろう。自分のことを棚にあげ、そんないら立ちを感じたことを覚えている。

宏村から黄山の鉄道駅へ向かうことが大変だった。観光地としてはあまり注目されていなかったせいか、公共交通の便がなく、やっと見つけたバス停にはいつまで経ってもバスは来なかった。1時間以上バス停で待ちぼうけをしてから、勇気を出して初めてヒッチハイクをしてみた。うまくいくのだろうかとおそるおそる指をあげてみると、しばらくたって目の前で1台のバイクが停まった。バイクのお兄さんは、「トレインステーション」という僕の言葉にうなずき、後ろに乗せてくれた。そして、駅前で僕をおろすと、何も言わずに走りさってしまった。中国人は日本人が嫌いで、憎んでいる。そんなこと、誰が決めたのだろう。思い込んでいた自分が恥ずかしくなった。

この上海、黄山の旅を経て、僕の中国や中国人への見方は変わった。その後も中国には何度か足を運んでいる。

こんなふうに旅の思い出を綴りだしたら、いくらでも書けてしまう。愛するバングラデシュのこともまだ書いていないし、「真夜中のドイツで言葉の通じない世界の男たちの心がひとつになった瞬間」のエピソードなんて、誰かに伝えたくて仕方がない。カーンチプラムやクトナーホラにグアナファト、たくさんのきれいな風景を見てきた。最新の情報はひとつもないし、誰かの思い出話を聞かされ続けるのはたまったものじゃないと思うけれど、でも聞いてほしいからまた何かの機会に書きたい。ばかばかしい話もたくさんあるし、きっと感動させちゃう話だってたくさんある。淡い恋愛の話は残念ながら無いのだけれど。

旅はいくつもの思い出を僕に残してくれた。大切なことをいくつも知ったし、しなくてもいい経験もいくつも重ねた。それから時に危ない思いもした。

無計画で無鉄砲で、何より向こう見ずな冒険のようなひとり旅は、家族を持ってもうできなくなった。けれど、それでも今いる場所から旅立つことで、見えるものや知られるものがあり、会える人がいるのではないかと思う。早くコロナがおさまってほしい。まだ世界は僕を待っていると思いたい。