2020年4月27日月曜日

4月25日26日

土曜日
1時から準備をし、2時から先週に引き続き、友だちの子どもたちにオンラインで授業をやらせてもらった。
まずは先週やった赤ずきんちゃんじゃんけん。
体を動かすじゃんけん系のアクティビティをリズムよくやることは遅延の関係で難しいことが分かっていたので、ただ体を動かし心をほぐす目的でやる。
名前と好きな食べ物を言う自己紹介。今回はミュートを使った。
ミュートを使うどうか自分のなかで迷いはあるが、やはりそっちのほうが断然よく聞こえる。
そこから読み聞かせ。
「はなくそ」
心をほぐすつもりでポップな本をチョイス。
でもここでしゅうすけから「今日は絵を描くんじゃなかったのかよー。」という声が。
そうか、彼らは絵がかきたいのか。うれしくなる。
ただ読み聞かせはどの子もじっくりと耳を傾けてくれる。
途中、声が聞こえづらいという話があった。
ヘッドセットは必須だ。
本題の「わたしの好きなもの」を読み聞かせる。
そして「じゃあ、みんなの好きなものをかいてみてください」。
画面のなかの10人近い子どもたちが一斉に絵を描きはじめる。
できあがったら発表を繰り返しながら30分。
しっかり集中していた。
最後にひとりずつが描いたものを見せながら発表。
あまりきれいに見えないけれど、言葉で付け足してもらい、こちらも言葉を返していく。
先週に比べ、授業らしくなった。
子どもと教員の双方向のやりとりも生まれた。
一方で子ども同士のやりとりは、非常に難しいと考える。
一度自分を挟んで復唱のような形でないと難しいと感じた。

5時からはおバカ企画。オンライン銭湯。
大好きな国立のファシリテーターハタノさんの考案。
お風呂につかりながらzoomをつなぐというバカ企画だ。
心のリフレッシュになったように思う。
部屋で授業をする準備などをぐたぐだ考えていたら、気がついたら深夜になっていた。

日曜日
2時から主催のオンライン読書会。まどぎわのトットちゃん。
主催と言っても、準備等は全部鉄兵がやってくれた。
トットちゃん、今読んで本当によかった。
子どもが時間割にとらわれず、自ら学びたいことを選んで没頭していく描写なんて、現代の先進的とされる取り組みを戦中にやっていたことに気づく。
なんと素敵な学校だろう。
読書会は11人参加。
なかなか混迷を極めそうなメンバーだったけれど、それがなかなか有意義だった。
途中から同級生トークになってしまったけれど、それも含めてよい会だったのじゃなかろうか。
「自分のクラスにトットちゃんがいたら」とか「じゃあなんでトモエ的な教育がいま現代のスタンダードにならないの」とかじっくり考えたい問いはどうしても浮かんでしまう。

夜は教職大学院の友人とZoom飲み。
2時間半、終始コロナ対応の話になってしまう。
でも、建前無しの本音の話ができる友人の存在はありがたい。
「もう白旗。意味のあることなんて何もできないでしょ。」
「それでも何かやりたいんだよね。」
「それでも何かやっているところを見せなきゃでしょ。」
「そういうこっちはやっているっていうアピールのためにやるのってどうなの。そういうのやめなよ。」

2020年4月25日土曜日

合唱企画

木曜に行われた合唱の企画について書く。
これはZoomを使って、離れた場所にいる2年生から6年生の有志が、「小学校の歌」(校歌にあたる歌)を合唱するという企画だった。
どうしてもタイムラグがあり、音楽室でやっているような合唱にはならない。
またZoomの機能を使って録画してみると、全員の声を平等に拾うわけではない(会議などでは助かるのだが)ので、うまく合唱には聞こえない。
月曜日に教員でやった事前の実験では、なかなかのへべれけだった。
それを工夫して乗り越えようという企画だ。

企画が始まる。
Zoomの管理者として参加する。
オンライン上の開室と同時に多くの子がログインしてくる。
それはまるで音楽室を開くと同時に子どもがなだれこんでくるあの光景を思い浮かばせた。
しかも怪我の危険がないので「歩いて落ち着いて入りなさい!」なんてがなる必要はない。
次々に参加者に名が連なってくる様子をうれしく見ていた。
また2年生から6年生、5学年に子どもたちがまたがっていることもうれしかった。
驚くことに、開室から10分ほどで100人の定員がうまった。
想定していなかったわけではないけれど、こんなに参加があるとは思わなかった。
実に全校の4人に1人以上の子が参加をしたことになる。
普段の授業では学年ばらばらで100人の子たちがいっぺんにひとりの教員に教わるようなことはしない。
でも、こうしてそれが行われている。
この状況がなければ思いつかなかったし、この状況だから実現したことだ。

タイムラグの説明をIさんがしたあと、まずはそれぞれ何も気にせず歌ってみる。
オンラインの合唱のいいところは、気兼ねなく声が出せることだ。
僕は音痴の自覚があるし、自分の声にコンプレックスがある。
人前で歌うことは好きではない。
歌うことは本当は好きなんだけれど。
オンラインだといつもより気軽に声が出せる。
誰がどこで声を出しているかがまぎれるからだ。
人によりけりなんだろうけれど、これは意外な発見だった。

録画した合唱を聞いてみる。
かなりずれている。
聞いている子どもたちの表情を画面で見ると、あまりのへべれけさに表情がくもっている子もいたが、笑顔の子も多かった。

「どうすればいいだろう?」という問いに、チャット機能や手元の紙で返事をする子どもたち。
少しばかりの双方向性が保たれる。

Iさんから「次は指揮に合わせてみよう」という合唱2回目。
また録画したものを聞く。
「さっきより合っていた!」という声があがる。
うれしそうな子が多い。
普段の合唱と比べると、まるで歌唱技術的にはおそまつなんだろうけれど、そこには確実に声を合わせていく喜びがあった。
自分たちの合唱をしっかり聞いてもいた。
これって学んでいるなと思う。
技術指導はできなくても、広義の合唱の学びがあったんじゃないかと振り返って思う。
今までやらなかった、考えなかった方法を、今までにない状況の制約の中で採用することで、今までにない学習がそこに浮かび上がってくる。
そんなことを見出すことができた。

次に、Iさんは100人の参加者のなかから子どもたちに指揮者を募った。
手を挙げた数名のなかの一番小さな学年の2年生のHくんをIさんは指名した。
ああ、この場面も好きだ。
もし実際の音楽室だったら、自分より体が大きい上級生に囲まれたなかで、多くの視線が行き交う中で、Hくんは手を挙げただろうか。
あげられたらいいなとも思う。でも、あげられなかったかもしれないなとも思う。
Hくんの指揮で歌う。
僕も画面の前でしっかり口を開け、声を出して歌う。
みんなが画面でいっしょになっているんだけれど、身体は自分の個人の部屋にあり、変な安心感があった。

録画したものを流すと、自然とああだこうだと感想がもれてくる。
拍手をもらったHくんはうれしそう。
そりゃそうだ。100人のいろいろな学年の子から拍手をもらえるなんて機会はそうないもの。

今までにない学びが生まれていた1時間だった。
発案から1週間で実現したこの企画、おそらくこの状況になければ1か月は吟味されてから、丁寧な準備を経て、ある程度の成功が見込まれてやっと実現したことだろう。
でも、この状況だからこそ、前例のない状況だからこそ前例のないことが試しやすくなっている。
そして前例がないことは、新しい学びを生みだす。
そんなことを実感できた時間だった。
もちろん歯がゆいことも多いんだけれど、今だからこそできることっていっぱいありそう。
ああ、そういえばこの企画ももっと歌を生業とする人と一緒にやれたらと思う。
頭に思い浮かぶ方がいるし。
もう少しで自分の裁量でできる時間がやってくる。
そのとき僕は何をするんだろう。考えよう。

4/21~24

4/21
午前中は飼育当番やら動画撮影やら文集づくりやらで出勤。
午後は若手教員と「せんせいのつくり方」のワークを楽しんだ。
意外とみんな肩に力が入っていないんだなとうれしくなる。
となると、自分のあの20代の気負った感じはなんだったんだろう。
今のフラットに子ども、保護者と向かい合う姿勢は、たどりつくまでに10年以上かかったんだけどな。

水曜日は午前午後共にオンライン会議。
夕方はオンラインでPA。

木曜日
午前は出勤し、4年生の文集づくり。
午後は伊藤企画。これについては別に振り返る。
Nさんと打ち合わせをし、5時から別の打ち合わせ。
いろいろやっている。

夕方、導入を決めていたロイロについて、web版の使い勝手の致命的な悪さが報告される。
きちんと報告してくれたYさんに感謝。
急いでグーグルクラスルームの検討を提案する。
Yさんに打診する。

金曜日
本当は出勤すべきではないので、出勤の足が重い。
どんどん出勤者が増えていて、そのひとりが自分となっていて、社会を構成する一員としての申し訳なさがある。
これがゆるみなんだろうなと思う。
あさいちで自習室を開設する。
自習の合間にイノカの高倉さんが送信しているサンゴ礁の水槽の動画を見せる。
そして、「多くの人が今君たちが置かれている状況をどうにかしようとしている。」という内容の話をする。それでどうというわけではないし、何でその話をしようと思ったか分からない。衝動的にしてしまった。
9時の回の最後に、長田弘の「世界は一冊の本」の詩を読み聞かせる。
いまの高学年の彼らにどうしても送りたくて、古本を購入していたのだ。
その後、Yさんとグーグルクラスルームの検証に入る。
教員側は使いやすいんじゃないかと思う。
子どもたちの協同学習を考えなければ、子どもとへの課題提示、課題のやりとりはロイロと変わらずできる。
ロイロでやりたかったことはできる印象だ。
僕としてはグーグルクラスルームのほうが、添付できるものも多く、広がりがありそうで、使ってみたい気がする。ロイロのノートがあまりしっくり来ていないのかもしれない。
ロイロは、ロイロ自体で勉強する印象なんだな。

午後はだらだらしてしまった。
あまり体調がよくなかった気がする。

2020年4月20日月曜日

「当たり前のことを当たり前にする」

学校でよく耳にする言葉だ。
どこかでそれに違和感を持つことがあった。
なんでだろうか。
自分が、「当たり前」という言葉を子どもに使わないのはなぜだろうか。

その言葉は誠実ではないものを感じるからだ。
フェアな言葉じゃないのだ。

だって、その当たり前は誰にとって当たり前なのだろうか。
誰が決めた当たり前なんだろう。
それは、その言葉を使う本人に他ならない。
教員から子どもに使う場合、その当たり前を規定しているのは教員だ。
それなのに「当たり前」という言葉は、まるで世間一般が暗黙で規定していることのような響きがある。
教員という個人の規定なのに、まるで世間一般の規定のような響きを持たせることは、フェアじゃないと思うのだ。
そして、世間一般の大きさは、有無を言わせない圧力がある。
例え納得できなくても呑み込まなくてはいけないような、とても乱暴な言葉のように思うのだ。

それを逆に子どもから教員に使ったらどうなるだろう。
「先生、当たり前のことだから当たり前にしてよ。」
とても乱暴に聞こえないだろうか。
僕は子どもが自分に使っても受け止められる言葉を使っていきたい。

自分にっとて当たり前のことでも、「当たり前」という言葉は使わず、たとえまどろっこしくても、相手に伝わるように丁寧に言葉を尽くすことが、教員でありひとりの大人としての誠実でありフェアな態度だと思う。

2020年4月19日日曜日

4月17日18日

金曜日
金曜日はオンライン自習室が行われた。
ゆるやかにつながれる場所を作りたいと思って作った場だったけれど、いったいどのくらいの参加があるか分からなかったから不安だった。
20分くらい前に開設すると、開始時間を待たずに次々と入ってくる2年生たち。
少しの説明で画面の前で勉強を始める。
それがうれしい。
びっくりするほどみんな真剣にやっている。
雑談を投げかけるのはもっぱら有馬だけ。
ああ、この感じ。
教室といっしょだ。
子どもたちが真面目にやっているのをじゃまする有馬。
子どもに注意されて、くすくす笑い声が聞こえてくる。
子どもたちのため、なんて言いながら、これは自分のためだなって分かった。

専科の方に残り10分くらいになったら子どもたちに何かしませんか?
そう声をかけていた。
Sさんは読み聞かせを、Iさんはピアノ演奏、Tさんは絵を使ったしりとり。
それぞれ専門性を活かしたことをやっていた。
みんなうれしそうだ。

ピアノの演奏のときの子どもたちの様子が印象的だ。
曲が始まると、みんな画面を見つめていた。
音に誘われた家の人たちが集まってくる。
いいなあ。
それは音楽を聴く環境としては非常に粗末なものだったんだろうけれど、でも音楽の持つ力をまじまじと見た気がした。
たとえ粗末な音であっても、音楽なんだ。
ささくれだつ心をなでるような優しさが音楽にはあるんだろう。

午後は、友人の子どもたちにオンラインでアクティビティをした。
オンライン授業を見越して練習をさせてもらったのだ。
これがカオス。
なかなか活動的なことをリアルタイムでオンラインでやるのは難しい。
音声と画面の遅延がアクティビティではテンポが生まれるのを阻む。
また、体を動かすと画面から顔が離れ、声が聞こえなくなってしまう。
ふうむ。
難しい。
後輩からその後ダメ出しをくらうこともあったが、子どもたちはおおむね楽しんでいたようだった。
この経験を活かして来週もやることにした。
模索していきたい。とにかく、やってみることだ。
それにしても、20代のころの夜遊び仲間と、今になってこんなつながりがもてることがすごくうれしい。

夕方はロイロの講習。
講習内容はおそまつだったが、ロイロノートに触れたことはよかった。
完全なツールで、ロイロを入れたから授業ができるわけじゃない。
結局1から授業づくりを考え直さなきゃいけない。
というよりも、学校を1から考え直さなきゃいけないと思う。
今できること。できるけどやらないほうがいいこと。そのうえで保護者にどう納得してもらうか。
できることをつめこんで、結局誰もが苦しいことになるのは、僕らはもう痛いほど経験しているはずだ。
繰り返したくない。


土曜日
突っ走ったこの2週間の骨休めの日。
と言いながら、紙芝居動画の収録を行った。
喜んでもらえるだろうか。

2020年4月16日木曜日

4月15日 16日

4月15日

火曜日はクラスミーティングの2日目。
中学年4クラス。
クラス替えもなく、子どもたちは安定した関係なので、こちらもスムーズにすすむ。
傍から見ると30分は長い気がしたけれど、やってみた大塩さんはあっという間だったと言っていた。

クラスミーティングをしない1年生に動画の配信をしているけれど、今日から読み聞かせの動画を撮り始めた。
著作権のことが気になって、調べてみると、動画にのせるのはかなり難しいようだ。
今まではそれであきらめていたけれど、今できることはやりたい。
本の出版社、紙芝居の出版社、それぞれに著作権許諾をお願いする連絡をする。
メールやFAX。
すると、その日の夕方には一社からすぐに返信があって、許諾をとりつけることができた。
本当にありがたい。
あきらめなくてよかった。

夜に文教大学のてっぺいとZoom。
読書会を催すことにした。
トットちゃん。楽しみだ。

水曜日は会議。
オンライン自習室の企画が通る。それに工作展も合唱チャレンジも。
こうしてコロナのおかげで、個々の教員発案の企画がすんなり通りやすい状況になったことは皮肉だけど歓迎したい。
粗削りな企画でも、やってみないことには分からないからだ。

いろいろと情報を集めている中で、楽しみなことが増えてきた。
コロナは馬鹿野郎だけれど、新しい状況は新しいアイデアを生む。
前例も慣習も伝統もふきとぶ。
こういう状況を待っていたんだろ。
やるしかないし、それを楽しみたいじゃないか。



4月16日

これで全学年でクラスミーティングが終わった。
やってよかったと思う。
しかし、授業を考えると、難しさが大いにあると思う。
さあ、どうするか。
どうなっていくのか。
見当がつかないけれど、見当をつけていきたい。

午後はNさんと打ち合わせ。
ポップコーンのことについて、見解が一致してよかった。
やはり栽培は過程を大切にしたい。
収穫体験にはしたくないと思う。

未開の地をほしがっていたんだから、踏み込んでいかなきゃ。
結局伝統とかカリキュラムに守られていた自分に気づくなんてことになるのはいやだ。

明日は友だちに頼んで、子どもたちにオンラインで授業をする。
緊張するけれど、20代のころの夜遊び友だちにそんなことができるなんてうれしい。
夕方からはロイロノートの講習。

それでも家族の時間が増えて、何かこの状況を受け入れ始めている自分もいる気がする。

2020年4月15日水曜日

4月13日

昨日はオンラインクラスミーティングの1日目。
最初は2年生。
子どもたちはクラス替えもなく持ち上がったが、担任は交替した。
特に2組は新任の教員ということもあり、どうなるか不安だった。
今現在、子どもの顔と名前が校内で最も一致するので、出席を管理する役目として参加した。
時間になると、続々とログインしてくる子どもたち。
蓋をあければ、非常に安定した時間だった。
近くに保護者がいることもあっただろうが、どの子も落ち着いていた。
もちろんスイッチ大好きなのぶは、ミュートボタンを勝手にいじっていたが、そんなもんだ。
子どもたちはその時間を楽しんでいたように思う。
子どもたちを安心させたいと思っていたけれど、結局子どもたちより僕ら教員がいつもの(ように見える)子どもたちの顔を見て安心をした。

午後は1年生のオンライン保護者会。
オンライン保護者会は初めての試みであり、また保護者とは12月の新1年生保護者会の際のよそよそしい関わりがあったきりの対面だったので、非常に緊張していた。
そもそも何人参加するか、何人の欠席がでてしまうか心配だった。

蓋を開けてみれば、なんと全員が参加してくださっていた。
本当に安心して、少し涙が出そうになったくらいだ。
と、同時に、きちんとこの保護者会で思いや考えを伝えて共感をしてもらうことが、保護者との第一歩になると感じた。
かなりの気合いを入れて話し出す。
特に気をつけたのが、自分たちもこの状況を不安だと考えていること。その一方でどんな状況であれ子どもたちの育ちを支えるために工夫をこらしていくこと。具体的なことをしていて、さらにこの先もしていく準備があること、それを伝えた。
やっていることを誠実に伝えること。思っていることをまっすぐに伝えること。それを心がけた。

ぼくたちは未知にとびこんでいくことが得意な2人なんだと伝えた。
そしてみなさまも、子育てをしているみなさまも、きっとそうです。
だから大丈夫です。と伝えた。
本当にそう思っている。

自分にとって初めてのチャレンジが、パートナーである西本さんを保護者の前でも西本さんと呼ぶこと。
これまでは保護者の前では西本と呼んでいた。
保護者の前で身内にさんをつけるのはおかしいと習っていたからだ。
でも、今年はそれをやめようと考えた。
なぜなら保護者も同じ身内だからだ。
子どもの育ちをともに支える仲間だからだ。
保護者も同僚も、子どもを中心に考えたときに、等間隔でないにしろ、近くの存在と捉えたい。
そう考えていた。
「保護者の方とはサービスを提供する側と受ける側という関係でないと考えます。ぼくたちは子どもの健やかな育ちを支える仲間だと考えます。ですから、同僚のことも、保護者の方を呼ぶように、さんをつけて呼びたいと思います。」
正直、うまく伝えられたか分からない。でもうなづいている親もいたのでよしとしたい。

出席確認に20分以上かかってしまい、結局1時間45分の長丁場になった。
2時間の予定で伝えておいてよかった。
やってよかったと思えたから、よい保護者会だったのだろう。

2020年4月12日日曜日

「校内研究・研修」で職員が変わった! 2年間で学び続ける組織に変わった小金井三小の軌跡

題名の本を読んだ。
まずは、題名に学校名が載せられていることに驚く。
そして、中身を読んでさらに驚いた。
とにかく、個人名がどんどん出てくる。
ここに書かれた話は、理想を語るために綴られた作られた物語ではないんだなと衝撃を受ける。すべて本当にあった話なんだ。

この本には、東京の都心から電車で30分くらいいったところにある、小金井市の住宅街にある、どこにでもあるような公立小学校の教員たちが、校内研究を通じて劇的に変わっていく様子が、ひとりの教員の視点で綴った日記を通じて描かれている。
その中身は誰かに何かを教えようというふうには書かれていない。
ただ、研究主任として、「楽しく学び合える職員室をつくろう」としたひとりの教員のそのときそのときの想いが日記の形で誠実に吐露されているだけだ。
なのに、そこに気づくことがある。
丁寧に添えられている注釈からは、研究を支える(引っ張るではないんだなと気づく)講師の在り方を知ることができるし、やはり日記を書いている著者の村上さんの姿からは、同僚を信じて尊重する姿勢の大切さをこれでもかと感じさせられた。
日記なので、基本は書き手の視点で書かれているけれど、そこに関わる多くの人発言と事柄を振り返る文章が多く入っているので、読む人によっては、研究を支える人の気持ちに感情移入するかもしれないし、もしくは変わっていくものに戸惑う人に共感する人もいるかもしれない。それだけ多くの人の姿と感情が丁寧に綴られているのだ。

「劇的に変わっていく」と書いたが、そのために行われたことが決して劇的でないことに考えさせられる。
カリスマ校長が来たわけでも、最先端の機器が導入されたわけでもない。
ただただ丁寧で誠実な対話で学校が、そこにいる人たちが変わっていくのだ。
それは失礼な言い方かもしれないが、泥臭いものだと感じた。

読み終わっていくつか印象的な場面がある。
まずは2017年9月、運動会の振り返りを授業の題材にしようと悩む本田先生に、中村先生がかけた言葉が、紙面を飛び出して僕の心にとびこんできた。
ああ、こういうやりとりが職員室でしたいんだ。そう思った。
そして2018年11月、注釈が内容の半分以上を占めている島津先生の気持ちが書かれているところも、なんと誠実なんだろうと驚いた。
そう、この本には、研究に参加する(巻き込まれていく)人たちの戸惑いもしっかりと書かれている。それがいいなあと感じた。実際に何かが変わっていくときに、それまでのことや自分が否定されたと感じる人は大勢いるだろう。その気持ちもちゃんと書かれているのだ。
島津さんの最後の一行が最高だ。ぜひ読んでほしい。

そして何より、2018年7月の著者の心の動きが強く心に残った。その1年前、2017年6月に「先生たちに覚悟を決めてもらおう」と書いていた著者が、そう、そのときには周りを動かそうとしていた著者が、そうではなく、自分自身が覚悟を持って向き合わなくてはいけないという思いに変わっていく心の動きに強い共感を抱いた。

読み終えて、じゃあ何をしてこうか、ということが簡単には書けない。
なぜなら、学校が変わるための魔法なんてないことが痛いほど分かるから。
同僚の教員たちの力を信じ、彼らと会話をたくさんして、自分の想いを伝えるとともに、その人たちの想いも丁寧に汲み取っていくことで、少しずつ戸惑いと背中あわせの小さな実感を積み上げていくことで、ようやく学校は変わっていく。
本当に地道なことの積み上げだ。
でも、それは、誰もができることでもある。
だからやるかやらないかなんだろう。
ああ、魔法だったらどんなによかったか。
これはあの学校だったからできたことだ、と思える内容だったらどんなに良かったことか。
言い訳で逃げていた自分に気づかずにはいられなくて、今頭を抱えている。