2020年9月12日土曜日

地味な滋味を味わう

 毎日絵本の読み聞かせをしている。

去年もたまに読み聞かせをしていた。
担任ではなかったが、比較的時間に余裕のできやすい雨の日の朝に、担任が教員室に行っている隙に、1・2年生の教室に突然お邪魔し、おもむろに読み聞かせを始める「雨の日の読み聞かせおじさん」という妖怪になっていた。
それはそれでとても楽しかった。
ただ、そういう突発的な読み聞かせのときは、わりかし惹きつけやすい内容の本ばかりを選んでいたように思う。突然の坊主頭の読み聞かせを楽しい時間だと思ってほしかったからだ。
「だめよ、デイビット!」シリーズは間違いなかったし、アランメッツの「はなくそ」はどの教室で読んでも、笑顔の叫び声があがった。刺激のある作品をどこか意識的に選んでいた。

クラス担任に戻り、毎日同じ子どもたちに読み聞かせできるようになった。
コロナの対応で、なかなかじっくり読み聞かせられるゆとりのある時間がとれないことは悩みだ。
そんな状況なので、比較的早く読める福音館書店の「こどものとも」「かがくのとも」を手に取るが増えている。
そして、これまでのように刺激の多い作品ばかりを読むことはなくなった。これまで読んできた本に比べ、地味に見えるものも読み聞かせるようになった。
たとえばこどものとも5月号「ぼくのつり」。父親と早起きしてつりに行く少年の様子が描かれる。
子どもたちにとって退屈にならないだろうか心配になった。

いざ読み聞かせると、子どもたちはじっと絵本のほうを見つめていた。
読み聞かせる僕も、だんだんと日が昇っていく時間の経過を淡々と描く絵の美しさを感じていた。
地味に見えた絵本の滋味を子どもも僕も味わっていた。
笑い声のような分かりやすい反応は起きなかったが、読み終えたときに緩やかな満足が教室を満たしていることは感じられた。

ああ、大切な絵本のよさだなあと思った。
どうしても刺激の強いもの、反応の起きやすいものを手にとってしまう。言い訳になるが、これは僕だけの傾向でないように思う。大きく言えば世の中全体の傾向でもあるように思う。そのうち地味に見えるものは、世界から駆逐されていってしまうのではないだろうか。

でも、薄味にもたしかな味わいがある。
それを味わえるようにしていくことが、学ぶことの大きな意義なのではないか。日々のささやかな美しさに気づけることは豊かさと言えるのではないだろうか。
絵本の読み聞かせをしていて、そんなことを想う。
地味な滋味を味わえるように、選書していきたい。

ああ、それから、絵本には、理解を越えたナンセンスなものもあって、それも魅力だ。
来週のどこかで「とらのゆめ」を読みたい。
https://www.fukuinkan.co.jp/book/?id=6564

2020年9月10日木曜日

くうそうえにっき

「あさおきたら だいすきな ちょこれーとの うみでおよいでた。うきわは どーなっつの うきわで びっくりしました。」 


たまには実践(授業)の話。

1年生では毎年夏休みには絵日記の課題が出されている。

学校の文化である日記、その第一歩となる課題である。

今年はコロナの影響で、絵日記が書きたくなるような出来事がどの家庭でも少なくなるだろうと思い、例年よりも絵日記を課す枚数を減らし、その代わり「くうそうえにっき」をかかせることにした。

(普段の夏休みだって、家庭の状況により子どもの過ごし方はまちまちで、慮ることは必要。)

事前の授業では、みんなで大ぼら吹きを目指す活動をした。

「嘘をつくことをほらを吹くとも言います。今日はみんなで大ぼら吹きを目指そう。嘘をついて人をだますことは悪いことだけれど、今日は特別に何でもかんでもほらをふいてオーケーです。できるだけ大きく大きくほらをふこう。ただ、聞いた人が悲しくなったり、苦しくなったりするほらはやめてね。聞いた人が愉快になるような大ぼらを考えてみよう。」

ひとり、またひとりと手が挙がっていって、その日は大盛り上がり。

そんな活動を経て、夏の課題「くうそうえにっき」が子どもたちに課された。


そして提出された日記の書き出しが、冒頭の文章。傑作。

他にも、恐竜の時代に行ったり、犬になったり、あさがおの芽が開くと中からちょうちょが生まれたり、読んでいてたまらなくなる傑作ぞろいだった。

子どもたち自身も楽しんで取り組んだことが作品から伝わってくる。

予備にもう1枚、くうそうえにっき用のワークシートを配っていたが、クラスのほとんどの子が2枚の作品を仕上げていた。


読んでいてたまらなく楽しんだことは、興奮を隠さずに子どもたちに伝える。

文章を書いて表現することで、人の感情を動かすことを知ってもらいたいからだ。

そして、それぞれの作品にコメントを添えて返す。


僕だけが楽しむのではもったいない。コメントも僕のものだけでは、足りない。

子どもたちもお互いのくうそうえにっきを読み合った。

読んだ感想は付箋に書いて送り合う。そのときには「えんぱわーこめんと」を心がけるように伝えた。

「えんぱわーっていうのは相手を力づけることだよ。もらった相手が元気になるようなコメントを目指してみよう。」

このポジティブなフィードバックを送り合う活動は、とても意味のある活動だと思っていて、続けている。

(その活動についての報告はこちら。

https://www.u-gakugei.ac.jp/graduate/professional/upload/a_report_2019_17.pdf

果たしてそれが1年生にもできるのか心配だったが、ほとんどの子が意図通りにポジティブなコメントを送っていた。繰り返していけばコメントの精度も上がっていくように思う。

何より、自分の作品を読んで、それに感想が来ることはうれしいものだ。

これから6年間、人によっては一生の習慣となるかもしれない日記の第一歩を、書くこと・読んで味わうこと・感想を受け取ることを通じて前向きに踏み出すことができたと思う。


最後にもう一編。ありっくとは僕のこと。

「あさおきたらありっくがでてきて そのまま こあらになった。そしてつぎにだんごになりました。そしてわたしがたべてしまったのです。ありっくだんごはわたしのおなかのなかでたすけてーといったのです。」









2020年9月7日月曜日

誰かのために

 金曜日に学校の飼育活動を担当する4年生が、1年生に動物たちを紹介する時間があった。チャボとウサギとヤギが学校では飼われている。

小屋から広いスペースに出されたチャボを、4年生のSくんが慣れた手つきで抱き上げている。隣では1年生のTさんが両手を出して構えている。
Sくんはその手の上に、チャボをそっと手渡していく。
「チャボの下の胸のほうを、やさしく支えるんだよ。必ず両手でね」その言葉がとてもやさしい。
Tさんがしっかりと抱きかかえられたことを確認し、添えていた手を少しずつ離していくSくん。おとなしく抱かれているチャボ。固まっていたTさんの表情がだんだんと笑顔に変わっていく。
「ふわふわしてあったかい!」気がつくと満面の笑みのTさん。
カメラを覗く僕も、おそらく満面の笑み。
帰りがけにSくんが近づいてくる。独り言のようにつぶやく。
「Tちゃん、喜んでいたね。かわいかった。あのさ、アリック、実は今日まで僕、チャボ抱っこできなかったんだよ。僕も今日が初めての抱っこだったんだ。」
嘘のような、本当の話。



2020年9月6日日曜日

20200904 石川晋連続講座「個別最適化の迷宮」

 金曜日は石川晋さんの連続講座「個別最適化の迷宮」に参加した。

ここ最近はめっきり「個別最適化」について懐疑的な気持ちになっていたので、どんな話が聞けるか楽しみだった。

はっきり言えば、個別最適化の悪口を言いたかった。


蓋を開ければ、もちろん昨今の個別最適化風なものに対する批評的な語りはあったけれども、それよりも、そもそも個別最適化とはなんなのだろうかということを考える時間になった。

初めの話は晋さんの「誕生日通信」の実践の話からだった。

「自分がやってきた実践の中で、個別最適化はどれかといえばこれなんだと思う」

クラスの誕生日の子どもひとりに向け学級通信を発行する実践。

子どものエピソードが書かれ、その子に送るために探された詩が載り、また晋さんも子どもの名前の頭文字から始まる詩を書いて送る。

「ひとりの子どものためのことが全体にも何かしらの影響を与えていく」

それを晋さんは個別最適化なのだと語った。


個別最適化を初めて知ったのはいつだろうか。

苫野さんの本を読んだときかもしれない。

僕の解釈ではこんな感じだった。

学級の中には様々な子がいて、いわゆる落ちこぼれもいればその逆の吹きこぼれもいて、結局現状の一斉授業はクラスの本の一部の子ども(学力で言えば中位からちょっと下位くらい)がターゲットになってしまっている。

そうではなくて、自由進度や子どもの選択を広げていくことを認めていけば、子どもひとりひとりにとってよりよい学習ができるはずだ。

そのような考え方のもと、取り入れられることが個別最適化だった。

とても共感した。

自分自身の子ども時代を思い出しても心当たりはあったし、教員として抱えているジレンマもあった。

それで自分も授業のなかで個別最適化を意識するようになった。


ただ、GIGAスクールやコロナ禍のオンライン授業のあたりから、この個別最適化の文脈が変わってきているという漠然とした違和感があった。

「個別最適化=パソコンを使ったAIチックな自学自習システム」みたいに単純なものにしていく傾向を感じて、自分の心が離れていった。

それはまるで、新自由主義的なものに教育が絡めとられていく流れにしか思えなかった。

それに個別化が孤立化になっているように思い、これまで学校で大切にしてきた(と自分は考えている)集団だから起きる麗しきカオスみたいなものがないがしろにされている気がしたのだ。

個別最適化が単なる効率の良いドリル学習のことになっている印象を受けたのだ。

それ自体は否定しない。でも、それが素晴らしくて、これからの学校の学習のど真ん中なんだと言われると、じゃあ自分の情熱を傾けることじゃないだろうなと思ってしまっていた。


こうやって振り返ると、自分自身が世の流れに消極的に迎合していたことに気づく。

世の中の一部の流れに自分自身の解釈がゆがめられ、ひとりで心を離していたんだろう。


晋さんが語ったように、個別最適化は従来の教員がみんな持とうとしていた「子どもたち一人ひとりへの力強いまなざし」に支えられるべきものだと思う。

子どもたちをひとりひとりの複雑で難解で愛すべき存在として受け止めて、そのうえでじゃあどうしていこうかって一緒に考えていくうちに、周りも巻き込まれていく。それが個別最適化だと僕は考えたい。


「そうしたら、この迷宮から抜けられるって、そう思いませんか」

そう言って笑った晋さんはとてもかっこよくて、思わず拍手をしてしまった。