2024年2月27日火曜日

ハノイの塔

今日の算数はハノイの塔を自作して問題に挑む時間。

ハノイの塔とは、古典的な数学パズル。
ルールに従って、小さな順に重ねられた円盤を、別のところに同じ順番で重ね直すという、とてもシンプルなパズル。https://ja.wikipedia.org/.../%E3%83%8F%E3%83%8E%E3%82%A4...
自作の方法は、画用紙を切り抜き、大きさの異なる三角錐を5個作る方法。円盤でなく三角錐というところが肝だ。あっきー(秋山真一郎さん)が紹介してくれた方法。
ほんの10分ほどで、2人ペアに1つ、5段の即席ハノイの塔が完成する。
子どもたちにルールの説明として2段の最短手順を説明する。これは3手順でできる。
僕から課したのは、まずは3段の最短手順を求めること。
次に5段の最短手順を求めることだ。
ロッカールームには1から50までの数字が書かれた付箋を用意した。正しい答えが書かれた付箋をめくると、そこには「3段正解」「5段正解」と書かれている。
2人一組で問題に挑む。
きっと子どもたちは楽しんで取り組むだろうと思っていたけれど、想像以上にみんな真剣になって取り組んでいた。
教室の隣同士のペアで取り組む。たまに喧嘩をしている2人も、真剣に話し合いながら三角錐を移動していて、それがうれしい。
逆にふだんはあまり話さない2人が真剣に顔を寄せ合って相談しながら三角錐を移動している姿は、もっとうれしくなった。
10手順もかからない3段は、ほとんどのペアがすぐに答えにたどり着いた。
付箋をめくって、喜ぶけれど、3段に挑んだことで5段の難しさになんとなく気づいているのか、喜びは薄い。
そこから5段が、難しい。
20分たっても答えにたどり着くペアはいなかった。
そこで時間切れ。授業時間に終わりが来てしまった。
それでも休み時間になっても黙々と取り組む子どもたちの姿があった。
この雰囲気がもったいなく、次の時間も算数を続けることにした。
2時間目になると、少しずつロッカールームから歓喜の声が聞こえ始めた。
5段の答えにたどりつくペアが出てきたのだ。
5段の答えにたどり着いたペアから「4段の答えはないのー」という声が聞こえる。そこで4段の答えも付け足す。
それに自作の6段目を作って挑戦するペアも出てきた。
なんとも美しいと思った。
しばらくして、みきさんが言った。
「これ計算で求められるじゃん。」
僕は驚いた。たしかに計算で求められるけれど、それに気づくとは思っていなかったからだ。
通路をはさんで隣のともが答える。
「えっ、ほんとに!」
「だってさ、2段が3手順で、3段が…手順、4段が…手順で、5段が…手順てことはさ、これは前の手順に…をかけて1を足しているんじゃない?」
腰が抜けそうになった。その通りだ。
2人のやりとりは、小さな声で、気づいている子は数人しかいなかった。
しばらく待っていると5段の最短手順にほとんどのペアがたどり着いていた。
そこで、「3段、5段の最短手順は何回か」それだけを書いていた黒板に問いを付け足す。
「6段だと、…手順です。さて、最短手順を計算で求めるなら、どんな式になるだろう」
すると、次に次に子どもたちがやってきて、自分なりの言葉で式を説明していく。
そのうちのひとりに、ゆうくんがいた。
5年生のはじめ、計算が苦手で苦労していた子だ。
「あのさ、あのさ、」と言いながら、必死に説明をする。
「それじゃあ、伝わらないなあ」
いじわるな担任だ。
「ちょっと待って、ちょっと待って」
ゆうくんは何かに気づいているようだ。
いつまでも待つよ。そんな気になる。
「前の手順に…をかけて、1を足す!」
ゆうくんはそれにたどり着いた。
そのうち、(…を段数分かけて、マイナス1)という式をたてた子が3人も現れた。
おお、…ⁿ-1を彼らなりの言い方で表している。なんと美しい。
僕のやる算数の授業は、いつも演習ばかりで、問題演習と解説の反復のなかで、解法を沁みこませていうような、そんな授業が多かった。
こんなふうな算数の時間は僕には作れないと思っていたけれど、今日はすごく美しい算数の時間で、なんともなんともうれしかった。
考える子どもたちの姿は美しかった。
(子どもたちは仮名です)





2023年3月19日日曜日

絵本の会

立川で小島くんや濱口さんが多賀一郎さんを招いて企画した会。

声をかけてともに参加した先輩は20才近くも年上。

いまだ学ぼうとする姿勢を学びたいと思う。

立川まんがパークが2階にある会議室。

昔大好きな人たちとよく人狼をやっていた懐かしの会議室。

入ってみると満席に近く、みんなが興味あるテーマだと分かる。


この日読み聞かせてもらった本はなんと全部で22冊。

それぞれに抱いた思いがあり、語れるのだけれど、初めの5冊にしぼって、ここに書き残しておきたい。


初めて話を伺う多賀先生は、とてもざっくばらんとした語り口。


最初の1冊は谷川俊太郎の『ぼくとがっこう』。

「不登校が急増していますね。すべてが学校のせいでしょうか。教師は万能ではないんですよ。特に1年が終わるこの時期。足りないことではなく、自分がやってきたこと、できたことに目を向けていけばいいんです。」

優しい口調でそんなことを話してから読み聞かせが始まる。

読み終えて、本の内容にからめ話す。

「学校でけんかできなくなっているように思います。」


2冊目が驚きの1冊だった。

『とんでいったふうせんは』外国の絵本。

なんと認知症をテーマにした1冊だった。

人の思い出が風船に見立てられている。

語り手である男の子が、おじいちゃんが大切な記憶の風船を手放していくことを嘆くが、それを最後に親が諭す。「あなたのもとに風船が残っているでしょ」と。

とても素敵な絵本だった。

この1冊は、絵本のある種の魅力が強くつまった1冊だったと思った。

どう向き合っていいか難しいことを、決して遠回しにすることなく、かといって直接的でもなく、何よりあたたかく描く。

それは絵本だからこそできるものだと感じた。

子どもたちにも読みたい。


3冊目は『メロディ だいすきなわたしのピアノ』。

多賀さんはおもむろにパソコンから音楽を流し出す。

バックミュージックが流れる読み聞かせは初めての体験だった。

本の内容に重なり、よりふくよかな印象になる。

何よりロマンチックだ。

こうして振り返って、大学生のころに近藤先生に読み聞かせしてもらったことを思い出す。

彼もロマンチストだった。

自分のなかにもロマンチストの一面があると自覚している。でも、それを人前に出すことはなんだか気恥ずかしい。

けれど、でもこうしてロマンチックな読み聞かせの時間に浸ることはよかった。

教室がロマンチックになるなんて、素敵じゃないか。

ちょっと勇気を出したいなと思った。


僕が最も心惹かれたのは4冊目の『まいごのどんぐり』。

子どもが「ケーキ」と名前をつけ、その名前をお尻にも書いたどんぐりを無くしてしまう。

そのどんぐりの目線で書かれた1冊。

たまらなく惹かれたのは、物語終盤。子どもは青年になり、どんぐりもいつのまに木に育っている。

その木から落ちたどんぐりを見つけた青年がつぶやく。

「ケーキ?」

ぐっときてしまった。

そういうことがあってもいいじゃないか、そう思った。

途中までシルヴァスタインの『大きな木』に似ていると感じたが、この「ケーキ?」の一言はあたたかな衝撃だった。

この本も絵本、そのなかでも特に物語の持つ豊かさをたっぷりと抱いている1冊だと感じた。

素朴だけれど丁寧でやわらかに彩られた絵。手元に置いておきたいと強く思った。


5冊目『ずっといっしょ』。

6年生の年度初めに読み聞かせようと決めた1冊。

「ずっといっしょ」そのメッセージがかわいらしい絵とエピソードのなかでとにかくまっすぐに届けれられる。

ともすれば暑苦しい僕が、それでも大人への不信感を抱いているだろう一部の子に届けたいメッセージがそれだ。この絵本が、それを叶えてくれると思う。

このあとの本もそれぞれに味わいがあって、いくらでも語れてしまいそうだ。

なんとも贅沢な時間だった。


以下、感じたことも書いておきたい。


〇「絵本を使う」ことへの抵抗感

近くの参加者の方と感想交換をしているときに感じたこと。

「子どもたちをこうしたいという意図がある読み聞かせ」をされている方がいた。

それは驚きだったし、実は心の中で強く抵抗を感じていた。

なんだかそれは絵本に失礼な気が、僕にはしてしまう。

誰かを思い通りに変えていくために絵本や物語はあるのではなくて、豊かな物語に浸ることで人もまた豊かになっていくのだと僕は思う。

道具として絵本があるのではなくて、僕らが絵本の世界におじゃまして、そこに浸ることで人は感化されていくのだと思う。

多賀さんが言った「読み終わったあとは子どもたちに任せる。何を感じるかは子どもたちに預ける」っていう感覚と似ていると思う。

「絵本を使って子どもたちを…」みたいな感覚は教員特有のエゴなんじゃないかと思った。

でも、ともすると僕も無意識にそんなやり方をする気がする。

そういう自分に注意深くありたい。

そういうおこがましさみたいなものに、敏感な子どもはきっといると思う。


〇自分自身の中にあった豊かな読み聞かせ体験

多賀さんの淡々とした(この意図は説明された)読み聞かせをたっぷり聞くことができ、今回、自分が読み聞かせを聴く体験に浸ることができた。

ここ3年、石川晋さんが受け持つ子どもたちに読み聞かせをしてくれているが、どうしてもそのとき僕は学級担任の自分を降ろせない。読み聞かせを聴くクラスの子どもたちに意識がいってしまうのだ。

でも、この日はたっぷり聴き浸ることができた。

そうしてみると、晋さんの語りもなぜだかよみがえってきて、それぞれの持つ魅力を頭と心で反芻していた。

さらに学校で同僚がしている読み聞かせも思い浮かんだし、20年も前に聞いた尊敬する先輩の読み聞かせもなぜだか浮かんだ。

それから、地元の呑み屋で知り合った役者の方のひとり語りの舞台を見に行ったこともふと思い出した。

誰かの読み聞かせをモデルにしたことは無い気がしていたのだけれど、それでも自分のなかには豊かな経験があって、それが自分を作っているんだなと思った。

今こうして振り返っていて、昔NHK放送センターで研修を受けたとき、トロッコの読み聞かせを年配の男性の講師にすると「あなたが物語が好きだということが良く伝わってきた」と言われた喜びも思い出され、うれしくなっている。


今年1年、子どもたちに本を読んでこなかった。時間や持つ教科のこと、言い訳はいくらでもあって、言い訳してきたんだけれど、まずは週1冊、来年は読むことにしたい。

それを決意した。


終わった後、同僚と近くのパン屋さんで1時間ほどたっぷり感想を交換した。

同僚とこういう話ができることがすごくうれしい。

お互いの読書体験を振り返ったりして、楽しい時間だった。


隣町でこんな機会があるなんて、本当に僕は恵まれている。

小島くん、濱口さんに心より感謝したい。

2023年1月29日日曜日

牧内の授業

1月の半ば、中高の同級生の同級生でフリーの記者をしている牧内昇平が、その仕事について受け持つ学校の子どもたち相手に話をしてくれた。

すごくうれしかった。

話の前半は今取材していることについて具体的な話。
みずからが取材した写真を使いながら、子どもたちに質問を投げかけ、話がすすんでいく。
そこから浮かび上がってくるのは、私たちのなかで薄れているが、福島では今も原発事故と暮らしていること。
「だから僕は福島に住んで、福島のことを伝えたいんです。」

後半は記者の仕事の意義について、牧内の思いが語られる。

「記者の仕事は現代史を作ること」
誰かが今いる今日を丁寧に書き残しておかないと、誰か偉い人に歴史が書き換えられてしまうかもしれない。普通の人である自分が歴史を作ることに意味がある。

「民主主義のための仕事」
みんなで話し合って大切なことを決めていくのが民主主義。
そのためにはみんながしっかりと話し合うための情報を得ることが必要。

「おかしい!を世の中に伝えたい」
おかしいことについて、きちんと伝えたい。おかしいことに直面している人が、ひょっとしたら声をあげられないかもしれない。でも、それを「おかしい」と言うことが、大切なはず。

語り口はいくぶんまともになっていたけれど、どこかあのころの牧内のまんま怠惰な雰囲気がありながら、こうして書き起こしてみれば、子ども相手に本気で話してくれたことが再確認できてうれしい。

途中で子どもたちの投げかけに、牧内が漏らすようにふと返した言葉が印象的だった。
「だって、それが正義でしょ。」
「正義」という言葉を簡単に使わない人間だと思う。それでも、その言葉がふいに彼の口から洩れた。
懐かしかった。
高校時代に、友人数名で雑談をしているときのことだった。
下世話に世の中を小ばかにするような話をしていたときだった。
一度だけ牧内が、その場のノリに合わせず、「俺はそういう考えなんだ。俺は(みんなが否定している)それを正しいと思っている。」と言ったことを覚えている。
あまりにはっきり言ったので驚いた。
彼が授業で子どもに漏らした「正義」という言葉はあのときの牧内のようだった。
きっと本人は覚えていないだろうけれど。

授業の後半、急に感極まってしまった。
教室の隅の席で毎日寝続けていた牧内と、馬鹿も思いつかないような馬鹿なことをし続けていた僕が、同じ場所からそれぞれの場所に巣立って大人になって、こうしてまた未来を作る仕事をいっしょにできた。
何かふいに目の前の子どもたちに勝手に重ねてしまったのだ。
今目の前にいる子どもたちも紆余曲折のなかで大人になっていく。そして、もしかしたら、それぞれ分かれていく日々が、あるタイミングで再び重なる瞬間があるのではないか。今こうして机を並べているように、人生のあるタイミングで、ふっとお互いの人生が重なる瞬間が来るのではないか。きっとそうだ。牧内と僕が今こうして重なっているように。
そんな確信にも似た気持ちになった。変に感極まってしまった。

それにしても、腕を折ってくるとは思わなかった。 


2022年12月4日日曜日

秋の1日

先月のある1日。

水田で収穫した稲穂。
しばらく干した後に脱穀したもみから、外側のもみがらをとって玄米にしていくもみすりを行う。
畑に近いテラスで、秋のやわらかな陽を浴びながら子どもたちは楽しそう。
すりばちにもみを入れ、野球の軟球ボールでごしごしとする。
その後、粉ふるいにもみを入れ、下からうちわであおぐと、はがれたもみがらが青空に舞う。そして、髪の毛に降ってくる。
「うわあ!さとちゃんの頭、大変なことになっているよ!」
歓声が挙がる。
のどかだ。
この日はそれから、教室横のテラスで牛乳パックを使い育てていたミニ大根も収穫する。
小さいけれどしっかり大根の形をしている。
何より、自分で育てたものだから、うれしい。
またまた歓声が挙がる。
「俺のちっちゃすぎるよー!しょうごのはおっきいのにさ!」
残念がる声も、どこかうれしそうに響く。
僕のミニ大根がなかなか立派に育ったことを自慢するタイミングをうかがっていたんだけれど、
「アリックのでかいじゃん!ずるい!」
と言われる。ここぞとばかり
「ずるい、じゃなくて、うらやましいでしょ。」
と返す。きっと相当、自慢げな表情になっていたと思う。
1日の最後には、グラウンドの脇に生えている柿の木の下に子どもたちが集合する。
6人で1つのグループ。
1人が高枝切りばさみを構え、他の5人はビニールシートを広げて持つ。
みんな、上を見上げている。
少し傾き始めた秋の陽が柿の実に降り注ぐ。
陽の光のような橙色の柿の向こうには青空が広がる。
慣れない高枝切りばさみに苦戦しながら、おいしそうな柿を探して、それを落としていく。
「ボトン!」
構えたビニールシートに柿が落ちるたびに、歓声が挙がる。
とった柿は、教室に持ち帰り、すぐに食べる。
調理室から借りてきたナイフとまな板。
得意な子がすぐにむきはじめる。
いつもはあまり目立たない女の子が、見事に柿をむいていく。
やんちゃな男の子が「みきちゃん、すげえ!ありがとう!」と大きな声で言う。
みきちゃんは、少し照れて、顔を下にむけて、柿をむき続ける。
今年の柿は、本当においしかった。
渋みが一切なく、甘みはつつましくほのかでさわやか。
興奮している子どもたちも、何だか落ち着いて味わっている。
幸せな1日だった。
(子どもたちは仮名です)






2022年10月30日日曜日

検索と文献

 「検索と文献」

社会科、工業の学習。
子どもは工業地帯、地域の責任者となる。選んだ工業地帯、地域に、任意の工場を誘致するためにプレゼンを行う。そのためのレポートづくり。
工業地域の場所、中心となる都市を日本地図におとしたり、工業種別の割合の円グラフ、さらに特徴や歴史をまとめる。
最後にその工業地域のキャッチフレーズを考えてみる。
このレポートをもとにプレゼンを行うという活動だ。
レポートの雛形やモデルは示していたのだけれど、それにしてもひとり1台は効率的だ。さくさく調べ、レポートが埋まっていく。
文献に比べ、スピードがまったく違う。
3時間を予定していたが、おそらく次の時間で多くの子が仕上がりそうだ。
とは言え、やっていて懸念は残る。
情報の真偽の問題はやはり強い懸念だ。
千葉県の都市配置がめちゃくちゃなサイトがあったり、表記ミスも見つけた。
それから検索は、情報をピンポイントでピックアップできる。
しかも、入力した言葉で、並行して様々なサイトから情報を得ることができる。
それがあまりにピンポイントすぎることも気になった。
ピンポイントに収集した多くの情報の中から、取捨選択するという行為の練習にはなる。
けれど、文献ではあった、広い情報からだんだんとそれを絞っていく活動は薄いと感じた。



図書室に入る。
得ようとする情報の載っている本が、図書室のどの棚にあるかを考える。
それは自分の得ようとしている情報が、大分類のどこに位置づけられるものなのか、考えることだ。
棚と棚の間を本の背表紙を眺めながら歩く。
ここで、目的からそれて、寄り道する子もいるかもしれない。
誘惑を振り払い、目的の棚の前まで行く。
棚にある本の背表紙をさきほどより丁寧に眺める。

ようやく目当ての本にたどり着いても、知りたいことがどのページに載っているか、それはすぐには分からない。
目次を見る。
「工業の分類」について調べたくても、目次には「工業の種類」と記載されているかもしれない。
頭の中で言葉をすりあわせていく。
ページを開いて、一読して、ようやく探していた情報らしきものにたどり着く。
腰と気持ちを落ち着けて、じっくりと文章と向き合う。



検索と文献と、情報を得るという目的は同じだけれど、その経験で身につくものは違う。
だから、学校ではどちらの経験もさせたいし、できるようにしたいと思った。
いいね!
コメントする
シェア

2022年10月23日日曜日

修学旅行雑感

 修学旅行雑感

本校では慣例で5年生担任がひとり引率をする。
コロナ以降で久しぶりの修学旅行。
信州の旅。
書き残しておきたいことがあるので、書いておく。


2日目の上高地は、これ以上にない晴天。
冷え込んだ空気のおかげで陽の光の温かさが体を包むようだった。
大正池からの焼岳、透き通る梓川の水面は光り輝き、目線を上げれば穂高連峰の山並みが青空に映える。
美しさに息を呑む。言葉のかわりにため息がもれる。
この言葉にならない感動を、「自然への畏敬の念」という言葉にしたんだろう。
そんなことを思う。
「きれいだね!」
そんなことを早口に言いながら、自由散策の子どもたちは足早に歩いていく。
どうやら他のグループより早く目的地に着きたいらしい。
もったいないと思いながら、それでもいいのかもしれないとも思う。
しみじみと染み入る滋味な味わいは、子どもたちには似合わない。
歳を重ねて、たくさんのものを見て、たくさんのものに汚れるからこそ、自然の美しさに心を洗われるんだろう。
「きれいだね!」
今はその感想でいいんだと思う。
美しい自然を尻目に、それよりも友だちと非日常にいる高揚感に浮足立つ子どもたちはまっとうだ。
それでも、美しさの中で過ごせたことは子どもたちの心に残っていくと思う。



3日目のちひろ美術館。
特別展は「絵本画家の絵の具箱」と「谷内こうた」展。
どちらも絵本のラフ画や原画が多く飾られていて、見入ってしまった。
「絵本画家の絵の具箱」を見ると、作者により、画材が様々に使い分けられていることが分かった。
それに描かれるものも、スケッチブックだったり石膏ボードのようなものだったり。
絵本だとどうしても紙に印刷されてしまうけれど、こんなに「絵画」だったんだなと、当たり前だけれど見落としていたことを痛感した。
「谷内こうた」展では、なにげない1ページのために、何度も下書きをしたことが分かるものがあって、それも感じることがあった。
美術館内で、ひとりの男子児童が大きな声で話しかけてきた。
「アリック!僕分かったよ!絵本は、絵を見ていたんだよ!それが初めて分かった!!」
静謐な美術館で大声をあげることをたしなめようと思ったけれど、あまりに彼の言ったことに共感したので、思わず、
「そうだね。本当に思うよ。僕も同じこと思った。」とこちらもそれなりの声で応えてしまった。
そう。
今回展示を見て、絵本の1ページ1ページが絵画作品であると感じた。
そして、それを、誰もがなにげなくめくり、どんな読み方もゆるしてくれることの温かさに気づき、なんてすばらしい文化なんだろうと感動した。
絵本という文化の寛容さに感動したのだ。
これだけの芸術を押し付けることなく高尚さとは無縁のような表情で、いつでもだれでも受け入れるなんて、なんてありがたいものなんだろう。
彼もきっと同じように感じたんだろうな。
それがうれしい。


そんな修学旅行だった。




2022年7月17日日曜日

黙食について

 いまだ黙食が続いている。

行事などは一定の工夫と配慮をしながらすすめているけれど、そもそもの毎日の生活では、まだまだ慎重な感じなのだ。
様々な意見があるだろうけれど、様々な意見が混ざり合い生活する場では、慎重な選択にならざるを得ないことを、特にこの数年は実感している。意見の狭間に立ち続け、疲弊している。それに、大人の選択の結果、子どもが意見の狭間の当事者になってしまって傷つくことはなんとか避けたい。
社会的合意を辛抱強く待つ。それを弱気だと責められることにも、「だから学校は…教員は…」と侮辱されることにもすでに慣れてしまった。
いまだ黙食が続いている、から始まる愉快なことを書こうとしたけれど、ちょっと吐き出したかったことがあふれてしまった。