2021年8月21日土曜日

「2つ目の下駄箱」

写真は2年生の教室から、隣接する中庭を写したもの。

なにげない1枚だけれど、僕はこの光景が好きだ。
中庭に向けて広くとられた出入りができる掃き出しの窓。
すべて開ければ、中庭と教室がつながる。
それから、テラスにしつらえてある木製の下駄箱。
これが大好きだ。
もちろん玄関にも下駄箱はある。
でも、ここにもうひとつ、あえて下駄箱が置かれている。
それは、教室から中庭にすぐにとびだしていけるように、遊び用の運動靴を入れておくためだ。
たとえ短い休み時間でも、ここに下駄箱があれば、子どもたちはすぐに遊びにいける。
授業が終わると、子どもたちは中庭に飛び出していく。
下駄箱の扉を勢いよくあけて、運動靴を取り出して、「ばたん!」扉が閉まる。
教室で別のことをしていて、中庭に背を向けていても、「ばたん!」「ばたん!」「ばたん!」背中越しに子どもたちが次々に外に出ていくことが分かる。
テラスを降りるとすぐに砂場がある。
砂場とテラスの間には、じゃ口がたくさんついた流しもあるものだから、砂場には、山だけでなく、川や湖が生まれていく。
ひとりで山を作っていた子も、気づくとみんなで砂場に王国を作り出している。
「みんなで力を合わせましょう!」なんて言う必要はない。
だって、みんなで力を合わせたほうが楽しい。
合わせることが良いことだからやるんじゃない。もっと楽しくなるから、そうする。
協力も、試行錯誤も、工夫も、挑戦も、全部砂場には埋もれている。
砂場の王国では、たいてい洪水が起きて、それで子どもたちはあわててお互いに指示を出しながら、急ピッチで堤防を設ける。
治水は古代から施政者の大切な仕事。
なんと彼らは治世の感覚まで砂場で身につけていく。
砂場の奥ではおにごっこ。
アスレチックでは、つなのぼりにうんてい。
ブランコはちゃんと順番で交替している。
ブランコのとりあいで、何度もけんかもしたけれど、そのうち自分たちでなんとなくルールができていく。
自分たちでルールを作る。大事なことだ。
ブランコの奥の草むらでは虫捕りをしている子どもたち。
虫かごを肩から下げて、虫捕り網を構えている。
夏の子どもの正装。
「有馬さん、中庭の雑草は、ぜんぶとっちゃだめよ。わざと少し残しておくの。そうすれば虫が住んでくれるから。」
先輩に教わったこと。
多くの保護者が通る渡り廊下。見た目を優先すれば雑草はきれいに刈ったほうがいい。でも、そうじゃない。子どもの遊びを優先する。
1日の終わりにとられる1時間の長い休み時間はもちろん、10分しかない授業と授業の合間の短い休み時間でも、子どもたちは外に出ていく。
休み時間は子どもの時間。
次の授業の準備をするより、廊下に並ぶことより、できればトイレにはいってほしいけれど、やりたいことをやる時間。
思い切り遊べば、廊下に並ばなくても時間でちゃんと次の授業に向かっていく。まあ、限りなく駆け足に近い早足の子はいるけども。
テラスに置かれたふたつ目の下駄箱が、僕は好きだ。


「学校にあるはずのものがないこと」

うちの学校には、あるはずのものがない。

たとえばそれは、校長室。
うちの学校には校長室がない。
校長の机は教員室に他の教員と同じように並んでいるだけ。
小学校の代表である小学部長の机も、もちろん同じ。
他の学校におじゃますると、校長室に通されることがあるが、なんだか緊張してしまう。
校長室がある意味もあるのだろうけれど、うちの学校は応接室があることでこと足りている。
応接室なら他の教員も使える。
校長は「校長」でなく原口さんだし、部長は「部長」じゃなく後藤さんだ。
なんというか、「校長」や「部長」って扱いをしなくて済むのは、校長室のような部屋がないことも大きいように思う。
それから職層(肩書き)というものもない。
主任教員やら主幹教員という仕組みはない。
長幼の序、年功序列のにおいは漂っているけれど、少なくとも肩書きでの上下はない。
息子が通う学校の学校通信を見ると、わざわざ教員の名前に、主任教諭やら主幹教諭やらの肩書がついているけれど、あれは本当に意味が分からない。
それは保護者に必要な情報なのだろか。
職層がないのは、僕は性に合っている。
それから学校目標もない。
これがないのは、歴史的な経緯も関係しているのだろう。
教室の一番前の一番上に非常に真っ当な学校目標が貼られているのを見ると、何だか後ろめたくなってしまうだらしない自分には、学校目標がないことはよかったなあと思っている。
そのかわり、どんなことを学校として大切にしていきたいかを、教員で確認する機会は、細かくとっている。
実は、「学校として大切にしていきたいこと」という確認では無く、「私は教員として何を大切にしたいか」を確認してすり合わせることのほうがいい気はしているんだけれど、なんだかんだ「学校として」と言いつつ「私は」で語れている気もするから、それでいいと思っている。
校長室も学校目標もないけれど、やぎがいて、その糞がたくさん落ちていて、子どもたちがこぞって登るいちょうの木があって、たっぷりの休み時間があって、子どもたちの笑顔と温かさのある学校だと思っている。
ああ、あとたくましい雑草もたくさんある。
写真は体育の授業でやった「雑草取りリレー」。
畑の一番奥のひまわりの場所の雑草を10束抜いて、たい肥箱に入れて、次の人にバトンタッチ。
面白かったなあ。池や水田に落ちる子がいなくてよかった。
落ちても、それはそれでその子も笑顔だった気もするけれど。



2021年8月10日火曜日

「子どもたちは屋根の下だけで育つのだろうか?」

 夏休みだけれど、日直で出勤。

今日の中庭はいつも以上に暑い。

照り付ける太陽を思わず見上げる。

空の青さと雲の高さに驚く。

ふと、10年前に先輩教員がつぶやいたひとことがよみがえる。

 

それはある会議でのこと。

50年ぶりの校舎建て替えに向けた議論は大詰めを迎えていた。

「こうしたい」が自由に言える学校だから、「こうしたい」が合わさり計画は膨らんでいった。

2階建てだった校舎を3階建てにすることで、膨らんだ「こうしたい」を詰め込んだ新校舎が出来上がる予定だった。

そんなとき、冒頭のセリフを、ある先輩教員がつぶやいた。

 

「子どもたちは屋根の下だけで育つのだろうか?」

続けてつぶやく。

「3階建てになったら、中庭の日照はどうなるだろうか。僕たちは教室での学習だけを大切だと考えてきたのだろうか。そうではなくて、この中庭で子どもたちが自由に遊ぶ休み時間も、とても大切に考えてきたんじゃないだろうか。だとするならば、中庭の日照の問題をもっとしっかり考えなくてはいけないんじゃないか。」

はっと息を呑む音が聞こえた気がする。

 

「増やさなくてもいい教室を増やしているのかもしれない。もう一度、本当に必要な教室は何なのか、考え直しましょう。」

何年かかけて考えたことを、そこからまた何か月かかけて考え直した。その結果、新しい校舎も2階建てで建てることになった。

 

中庭に出ると、青空が広がる。

今日はいない子どもたちの姿を思い浮かべる。

子どもたちは、青空の下で、陽の光をいっぱいに浴びて、いつも遊んでいる。

それが僕の好きな、僕の学校の当たり前の光景だ。


「子どもたちは屋根の下だけで育つのだろうか?」

あのときのY先生のつぶやきが蘇る。