2021年10月9日土曜日

運動会へのひとこと

僕のクラスでは、「今日のひとこと」という活動をしている。

活動というには小さなことなんだけれど、日直が翌朝のクラスメイトに向けて、ひとことを贈るという活動だ。

小さなホワイトボードに書かれたひとことは、黒板の真ん中に掲示され、翌朝登校した子たちが目にすることになる。


普段は書く内容は日直に任せきりの活動なんだけれど、今日は少し特別だった。

なぜなら運動会前日だったから。

「明日は運動会だから、なんかそういうこと書いてくれるとうれしいな。」

そんな抽象的な注文を出された今日の日直はAさん。

とてもまじめで、声の小さい目立つことはしない、そしてとっても優しい子。僕の投げかけに少し困った笑顔で応えていた。


子どもたちが帰ってから、Aさんが書いたひとことを見てみる。そこにはこう書かれていた。

「今日はうんどう会。めざせ ひきわけ」

それを読んだとき、頭で考えるより先に、胸がいっぱいになった。


うちの学校の運動会は、赤白対抗で行われる。

それぞれのクラスで半分ずつ赤と白に別れるから、クラスの半分は勝って、半分は負けることになる。

きっと彼女はうんと考えて、これを書いた。

クラスの誰にも勝ってほしくて、誰にも負けてほしくなくて、勝者と敗者にクラスを分けたくなくて、それでこれを書いた。

そして、それはたぶん本心だ。

人の目を気にする性格じゃないし、誰かの正解を伺う子でもない。


「めざせ ひきわけ」

賛否のある言葉かなとも思う。

1年に1回の運動会だ。その日くらいはしっかり勝敗をつけたっていいだろう。

そんな思いは僕にもある。


でも、彼女はそうは考えなかった。

そこにいるみんなの喜びを考えた。

同じ教室で勝ち負けがついたときの、その場の自分の気持ちを考えた。

そしてこの言葉が生まれた。


僕には書けない言葉で、でも彼女には生みだせた言葉で、それがとても美しくて、30以上も年が離れた彼女に対して畏敬の念を抱かずにはいられない。


子どもを伸ばすなんて、おこがましい。

僕にできることは、もともと備わっている美しいものをできるだけ損なわないことなんじゃないか。

そんなことを思う。


この仕事をしていて、まれにこういう出来事に出会うことがあって、僕はそれで、大げさに聞こえると思うけれど、人間に対して肯定的な気持ちになれる。

人間というものを信じていいんじゃないかって気持ちになる。


胸がいっぱいになる。



2021年9月23日木曜日

公認心理師受験について

今週日曜に公認心理師の試験を受けた。

公認心理師とは、2017年から始まった新しい国家資格で、その名の通り心理の専門家だ。

本来は大学や大学院で該当の単位を履修することで受験資格が得られるのだが、新設の資格であり、2017年から2022年まで(つまり来年まで)は5年の現場経験があれば特例で受験が認められる。

この特例での受験はGコース受験という。


今回僕はGコースで受験をした。

これはその記録。

ちなみに合否はまだ出ていない…


まずはみんなが知りたいだろう、教員の特例受験について。

公認心理師 Gコース で検索すれば、まとめられているページがたくさん出てくる。

結論から言うと、やることは3つ。

【参考】第4回試験のスケジュール

http://shinri-kenshu.jp/support/examination.html#exam_001_anchor_03


①現任者講習会を受講する。

この講習会を受けることがGコース受験の条件の1つとなる。

このブログを書いている9月後半現在、ほとんどの講習会はすでに締め切られていて、残りはいくつかの団体のみだ。

受験を検討する人は、まずはここを抑えなくてはいけない。

現任者講習会はこのページから探すことができる。

https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_16528.html


②受験の手引きの取り寄せ 試験の申し込み

Gコースで受ける時は、この際に、「実務経験証明書」が必要になる。

これは5年の現場経験を証明するものになる。

教員が受けるときには管理職に書いてもらうことが一般的なようだ。

チェックと署名だけの簡単なものである。

5年の現場経験は5年間常勤である必要はないようで、非常勤などで週1回勤務でもいいそうだ。

この5年にあたるかどうかは、割と複雑で、この手引きの19ページ以降に書かれている。

http://shinri-kenshu.jp/assets_certified/digitalbook/html5.html#page=1

また仕事内容も、担任業務でも認められるいるようだ。

つまり実務経験証明書さえ用意できれば、教員で受験資格を得られないことはなさそうである。


③受験

公認心理師試験は、ほぼすべてが5択の選択問題で、知識問題と事例問題がある。

約150問のうち、6割とれれば慣例では合格となる。

6割と聞いて、楽勝だと初めは思ったが、ところがどっこい、求められる知識の幅が本当に広かった。

心理学の歴史や流派、心理検査の種類や得点の分析、それに認知症の種類やら脳みその機能…さらに言えばアクティブラーニングの定義にも及ぶ

とにかく広範囲で、結局は試験当日の朝まではんべそで勉強をしていた。

勉強はすべて独学で行った。

市販のテキストと試験の過去問、それに無料のYoutube動画も役に立った。

夏休みを中心におそらく200時間弱ほど勉強時間に費やしたと思う。


雑感

まだ合否が出ていないので、なんとも言えないが、勉強はしんどかった。

大学受験以来、20年以上ぶりに、いわゆるとことん知識を入れ込んでいく勉強をした。

半分くらいは教員としてのこれからの生活に生かせそうで、半分はあまり生かせそうにない印象だ。


受験のきっかけは、友人の氏原が「有馬の仕事には意味があると思うんだ。」と紹介してくれたことだ。

はじめは話半分に聞いていたけれど、うじが紹介してくれたことはうれしかった。

うじはその後もタイミングごとに連絡をしてくれて、それで本気で取り組む気持ちになっていた。

それに僕はみんなもよく知っているようにデリカシーが無い。

人の心を勉強する必要性は充分に感じていた。

資格を取って、何か明確にやりたいことがあったわけじゃないけれど、ひとつの目標として設定しやすかった。

そしてコロナもきっかけとして大きい。

どこにも行きづらくなったなかで、だから勉強に没頭できたと思いたかった。

コロナのせいで奪われたことだけでなく、何かコロナ禍だから達成できたことを作りたかった。

僕なりのコロナへの反抗心だ。


勉強すればするほど、人間の心は複雑で、分かったつもりになることが恐ろしいと理解していった。

心理を勉強すればするほど心理は分からないという結論に近づいていったことは矛盾だなと感じるけれど、その矛盾を知れてよかった。

もし合格すれば、資格としては心理の専門家と名乗れるのだろうけれど、臨床経験も無いし、それを名乗るのはおこがましい。

でも、今まで見えなかった、見えていなかったけれで気づけなかったことにはこれから気づけるんだろうなと思っている。

だから勉強してよかった。落ちていても意味があったと思う。受かりたいけれど。

うじ、ありがとう。


2021年8月21日土曜日

「2つ目の下駄箱」

写真は2年生の教室から、隣接する中庭を写したもの。

なにげない1枚だけれど、僕はこの光景が好きだ。
中庭に向けて広くとられた出入りができる掃き出しの窓。
すべて開ければ、中庭と教室がつながる。
それから、テラスにしつらえてある木製の下駄箱。
これが大好きだ。
もちろん玄関にも下駄箱はある。
でも、ここにもうひとつ、あえて下駄箱が置かれている。
それは、教室から中庭にすぐにとびだしていけるように、遊び用の運動靴を入れておくためだ。
たとえ短い休み時間でも、ここに下駄箱があれば、子どもたちはすぐに遊びにいける。
授業が終わると、子どもたちは中庭に飛び出していく。
下駄箱の扉を勢いよくあけて、運動靴を取り出して、「ばたん!」扉が閉まる。
教室で別のことをしていて、中庭に背を向けていても、「ばたん!」「ばたん!」「ばたん!」背中越しに子どもたちが次々に外に出ていくことが分かる。
テラスを降りるとすぐに砂場がある。
砂場とテラスの間には、じゃ口がたくさんついた流しもあるものだから、砂場には、山だけでなく、川や湖が生まれていく。
ひとりで山を作っていた子も、気づくとみんなで砂場に王国を作り出している。
「みんなで力を合わせましょう!」なんて言う必要はない。
だって、みんなで力を合わせたほうが楽しい。
合わせることが良いことだからやるんじゃない。もっと楽しくなるから、そうする。
協力も、試行錯誤も、工夫も、挑戦も、全部砂場には埋もれている。
砂場の王国では、たいてい洪水が起きて、それで子どもたちはあわててお互いに指示を出しながら、急ピッチで堤防を設ける。
治水は古代から施政者の大切な仕事。
なんと彼らは治世の感覚まで砂場で身につけていく。
砂場の奥ではおにごっこ。
アスレチックでは、つなのぼりにうんてい。
ブランコはちゃんと順番で交替している。
ブランコのとりあいで、何度もけんかもしたけれど、そのうち自分たちでなんとなくルールができていく。
自分たちでルールを作る。大事なことだ。
ブランコの奥の草むらでは虫捕りをしている子どもたち。
虫かごを肩から下げて、虫捕り網を構えている。
夏の子どもの正装。
「有馬さん、中庭の雑草は、ぜんぶとっちゃだめよ。わざと少し残しておくの。そうすれば虫が住んでくれるから。」
先輩に教わったこと。
多くの保護者が通る渡り廊下。見た目を優先すれば雑草はきれいに刈ったほうがいい。でも、そうじゃない。子どもの遊びを優先する。
1日の終わりにとられる1時間の長い休み時間はもちろん、10分しかない授業と授業の合間の短い休み時間でも、子どもたちは外に出ていく。
休み時間は子どもの時間。
次の授業の準備をするより、廊下に並ぶことより、できればトイレにはいってほしいけれど、やりたいことをやる時間。
思い切り遊べば、廊下に並ばなくても時間でちゃんと次の授業に向かっていく。まあ、限りなく駆け足に近い早足の子はいるけども。
テラスに置かれたふたつ目の下駄箱が、僕は好きだ。


「学校にあるはずのものがないこと」

うちの学校には、あるはずのものがない。

たとえばそれは、校長室。
うちの学校には校長室がない。
校長の机は教員室に他の教員と同じように並んでいるだけ。
小学校の代表である小学部長の机も、もちろん同じ。
他の学校におじゃますると、校長室に通されることがあるが、なんだか緊張してしまう。
校長室がある意味もあるのだろうけれど、うちの学校は応接室があることでこと足りている。
応接室なら他の教員も使える。
校長は「校長」でなく原口さんだし、部長は「部長」じゃなく後藤さんだ。
なんというか、「校長」や「部長」って扱いをしなくて済むのは、校長室のような部屋がないことも大きいように思う。
それから職層(肩書き)というものもない。
主任教員やら主幹教員という仕組みはない。
長幼の序、年功序列のにおいは漂っているけれど、少なくとも肩書きでの上下はない。
息子が通う学校の学校通信を見ると、わざわざ教員の名前に、主任教諭やら主幹教諭やらの肩書がついているけれど、あれは本当に意味が分からない。
それは保護者に必要な情報なのだろか。
職層がないのは、僕は性に合っている。
それから学校目標もない。
これがないのは、歴史的な経緯も関係しているのだろう。
教室の一番前の一番上に非常に真っ当な学校目標が貼られているのを見ると、何だか後ろめたくなってしまうだらしない自分には、学校目標がないことはよかったなあと思っている。
そのかわり、どんなことを学校として大切にしていきたいかを、教員で確認する機会は、細かくとっている。
実は、「学校として大切にしていきたいこと」という確認では無く、「私は教員として何を大切にしたいか」を確認してすり合わせることのほうがいい気はしているんだけれど、なんだかんだ「学校として」と言いつつ「私は」で語れている気もするから、それでいいと思っている。
校長室も学校目標もないけれど、やぎがいて、その糞がたくさん落ちていて、子どもたちがこぞって登るいちょうの木があって、たっぷりの休み時間があって、子どもたちの笑顔と温かさのある学校だと思っている。
ああ、あとたくましい雑草もたくさんある。
写真は体育の授業でやった「雑草取りリレー」。
畑の一番奥のひまわりの場所の雑草を10束抜いて、たい肥箱に入れて、次の人にバトンタッチ。
面白かったなあ。池や水田に落ちる子がいなくてよかった。
落ちても、それはそれでその子も笑顔だった気もするけれど。



2021年8月10日火曜日

「子どもたちは屋根の下だけで育つのだろうか?」

 夏休みだけれど、日直で出勤。

今日の中庭はいつも以上に暑い。

照り付ける太陽を思わず見上げる。

空の青さと雲の高さに驚く。

ふと、10年前に先輩教員がつぶやいたひとことがよみがえる。

 

それはある会議でのこと。

50年ぶりの校舎建て替えに向けた議論は大詰めを迎えていた。

「こうしたい」が自由に言える学校だから、「こうしたい」が合わさり計画は膨らんでいった。

2階建てだった校舎を3階建てにすることで、膨らんだ「こうしたい」を詰め込んだ新校舎が出来上がる予定だった。

そんなとき、冒頭のセリフを、ある先輩教員がつぶやいた。

 

「子どもたちは屋根の下だけで育つのだろうか?」

続けてつぶやく。

「3階建てになったら、中庭の日照はどうなるだろうか。僕たちは教室での学習だけを大切だと考えてきたのだろうか。そうではなくて、この中庭で子どもたちが自由に遊ぶ休み時間も、とても大切に考えてきたんじゃないだろうか。だとするならば、中庭の日照の問題をもっとしっかり考えなくてはいけないんじゃないか。」

はっと息を呑む音が聞こえた気がする。

 

「増やさなくてもいい教室を増やしているのかもしれない。もう一度、本当に必要な教室は何なのか、考え直しましょう。」

何年かかけて考えたことを、そこからまた何か月かかけて考え直した。その結果、新しい校舎も2階建てで建てることになった。

 

中庭に出ると、青空が広がる。

今日はいない子どもたちの姿を思い浮かべる。

子どもたちは、青空の下で、陽の光をいっぱいに浴びて、いつも遊んでいる。

それが僕の好きな、僕の学校の当たり前の光景だ。


「子どもたちは屋根の下だけで育つのだろうか?」

あのときのY先生のつぶやきが蘇る。



2021年6月2日水曜日

ひまわりの芽

 2年生の教室から男性教員の太い声が聞こえてくる。「ひまわりの芽が出てたよ!」元気のよい声だ。興奮のまじった自慢げにも聞こえる声だ。子どもたちの歓声があがる。「よーく見ないとまだ分からないくらい小さな芽だよ。よく探してごらん。」

 

その声を聞いて、僕は頭を抱える。

彼はきっと自分の失敗に気づいていないだろう。

子どもたちが第一発見者となる大きな大きな喜びを、自分が摘み取ってしまっているという取り返しのつかない失敗を。

誰も気づかない小さな芽吹きに気づいたときの、その子の誇らしさよ。それはどんなに尊いか。

彼はそれを奪ってしまった。

 

いやでも聞こえてくる彼の大きな声に、僕は頭を抱えてしまった。

 

お気づきの人はいるだろうか。

浅はかな教員は、有馬自身だ。

 

あーーー、失敗した。だって、ひまわりの芽が出たのがうれしかったんだもの。

うれしいこと、やっぱり子どもたちにすぐ伝えたくなっちゃうんだもの。

 

すごく後悔してる。

頭抱えてる。

 

発芽というにはあまりに頼りない、土からようやく顔を出したばかりの芽が好きだ。こんな小さな芽が、暗闇のなかで土をかき分けて、地上に出てきたと思うと胸が熱くなる。

 

…という気持ちをおさえきれませんでした。

みんなごめんね。




2021年5月16日日曜日

料理と授業

 料理をすることがまあまあ好きなんだけれど、授業との共通点が多々ある気がする。

なんて気持ちでNHKのきょうの料理の土井善晴の「くらしのための料理学」https://amazon.co.jp/dp/4144072673 って本を読んだ。
「作る人は料理をするとおのずから、食材という自然と、食べる人という他人を思うことになります。家族に食べさせたいと思う、小さい子供だから小さく切る、疲れているから柔らかく煮る。そういった、人の思いによって、切り方、煮方、味加減を変えているのです。」(P.100)
授業も同じだなあと思う。僕が思う良い授業は、きちんと目の前の子どもがいるものだ。いつも授業を考えるときは、頭の中で子どもたちの姿を思い浮かべている。
と、同時に、特に若い教員の人には、次の文章も授業に置き換えて読んでほしい。土井さんが家庭料理について、繰り返し言っていることだ。
「力を抜くなら堂々と自信を持って抜いて欲しいのです。毎日のことですから、無理をしないことが大事です。全力の5割~6割でいいと思います。食後のお腹の満足感も、ほんとうは7割くらいでいいでしょう。」(P.16)
毎日の授業は、外食で出される料理ではなく、家庭料理だと思う。
小学校教員の場合、毎日、4時間だったり5時間の授業をすることになる。しかも、その授業は、担任だったら、1回やったら繰り返さずに終わる授業だ。多くの場合、同じ内容を扱うのは、数年後になる。(数年後にはきっと違う教え方をしたいと思うだろう。)
毎日の、毎回の授業に全力を出したら、きっと息切れしてしまう。息切れを起こさないように、無理をしないことが、毎回全力を出すことよりもずっと大事だ。それに毎日、毎回の授業に全力を出されたら、僕が子どもだったら、しんどいなって感じるだろう。
土井さんが別のところで「いい塩梅」という言葉を使っていたけれど、この塩梅を見つけられるように、若い同僚を支えたい。
ただ、僕の場合は、「いい塩梅」という言い訳で、だらしないいいかげんになってしまうことがあるので気をつけなければいけない。
「いい塩梅」ができるようになると、さらに授業への意欲がわいてくると思うのだ。
なんてことを鍋をふるいながら思う。そして明日の授業のことをあらためて考える。

2021年5月15日土曜日

ウネリウネラのブログへの寄稿③

 https://uneriunera.com/2021/05/10/kodomotachi-3-2/


 新年度が始まって、早くも1カ月がたちました。休校中だった1年前に比べ、今年の始まりはおだやかに迎えることができました。始業式はテレビ放送で行われ、入学式は以前に比べぐっと参加者をしぼって行いました。それでも、始業式、入学式ができなかった去年の4月を思えば、それは本当にうれしいことでした。

新年度を迎えるにあたって、おぼろげだけれど、どこか希望を持っていました。あたたかくなっていけば、少しずつ状況が良くなり、できることが増やせるようになると考えていたのです。

 僕のその希望は、まったくあまいものでした。結局、この1カ月も学校は大混乱の中にいました。状況は良くなるどころか、悪くなる一方で、まん延防止等重点措置が出されたことで、多くの行事を縮小や延期する決断を余儀なくされました。

 自分が教員でなければ、遠足や社会科見学などは「何も今無理して行かなくても」と簡単に決めることはできたでしょう。でも、子どもたちが学校行事をどれだけ楽しみにしているか、また、その経験がどれだけ子どもたちに残るものなのか、それを知っているだけに、ひとつずつの行事について決断を下していくことは、とても苦しいことでした。

 そして、緊急事態宣言が出されました。僕の受け持っている2年生の子どもたちにとって、この緊急事態宣言は、大きな意味を持っていました。なぜなら、緊急事態宣言が出された場合、本校では、万が一の際のコロナの感染を抑える観点から、異学年の子どもたちが交流する活動は見合わせると決めていたからです。子どもたちが楽しみにしていた、新しく入った1年生との活動ができなくなるのです。

 4月の終わりには、2年生が1年生に学校を案内し、様々な教室を紹介する活動が予定されていました。「学校案内はいつやるの?」「パートナーの子はいつ分かるの?」「いつ会えるの?」受け持つ2年生の子どもたちから何度聞かれたでしょうか。2年生の子どもたちは本当にそれを楽しみにしていたのです。「もうすぐ学校案内だ」そんな日記を書く子もたくさんいました。

 緊急事態宣言が出されたことを受け、この学校案内をはじめとする1・2年生の交流活動は延期としました。それを伝えたときの子どもたちの落胆ぶりは、それはそれは大きなものでした。

 せめてできることはないかと考え、1年生に向けて自己紹介カードをかくことにしました。子どもたちは一生懸命にそれを仕上げました。かわいいイラストを描いたり、学校に関するクイズを加えたり、カードの形を工夫したり、手作りのカードに子どもたちがどれだけ心をこめたか、それが伝わってくる力作ぞろいでした。

 本当なら学校案内をする予定だった日に、カードを渡しにいくことにしました。「今からカードを渡しに行くよ」そう伝えると、子どもたちから歓声があがりました。手を洗って、消毒をして、鼻までマスクをしっかりつけて、1年生のパートナーに会いに行きます。念には念を入れ、教室は開けっ放しにし、時間は5分以内と決めました。

 1年生の机には、名前シールが貼ってあります。事前に伝えていた名前を頼りに1年生を探します。楽しみにしていたものの、やっぱり初対面の知らない人と話すのは緊張するようで、歓声をあげていたはずの子どもたちは、少し硬い表情に変わっていました。

それでも、たった5分ですが、心のやりとりはできたようです。渡したカードをはにかみながらうれしそうに読む1年生のとなりで、2年生はもっとうれしそうでした。

クラスで1番体の大きいふうたくんは、大きな体を小さく縮めて、1年生の隣に膝をついて目線を合わせていました。時間が来て立ち上がった彼のひざこぞうは赤くなっていました。その赤いひざこぞうを見て、僕は心があったかくなりました。

「学校案内ができる日が楽しみだね」教室に帰ってきたみさとさんが、うれしそうにつぶやきました。その小さなつぶやきに、みんなが大きくうなずきました。

 

状況はかんばしくないように思います。ここにきて、休校だったりオンライン授業だったり、そういう言葉を再び目にする機会が増えてきました。もちろん一番に守るべきは子どもたちの安全と安心ですから、その必要があると考えれば、舵をきろうと思います。ただ、学校での子どもたちを見ていると、当たり前ですが、人と関わることの良さを感じることが多くあります。

葛藤と苛立ちの日々が続いていく覚悟はしながら、それでも子どもたちの日々はあたたかさに満ちたものにしたいと思うのです。

 

(子どもたちの名前は仮名です)

2021年3月28日日曜日

臨時休校の2カ月間における1年生との日々の記録

2020年度は、コロナウィルスの感染拡大の防止を目的とした臨時休校から学校が始まりました。

しかし、学校には登校できなくても、2020年度の1年生はもちろんいて、私はその担任でした。

実際の教室に子供たちが通えなくても、「学校」を行う。

それは大きな挑戦でした。

大きな戸惑いを感じながら、それでも子供たちのためにできることを模索し続けた登校再開までの2カ月間を振り返ろうと思います。



1.入学式ができない

小学校教員になって17年目。

今年度は初めて1年生を受け持つことになりました。

1年生を受け持つのに、まさか17年もかかるとは思わなかっただけに、本当にうれしく、子供たちに会えることが楽しみでした。

3月の春休み、本来なら、「どんな子が来るのだろう」「どう迎えたら子供たちは喜ぶだろう」そのようなことを考えながら子供たちを迎える準備をしていたのでしょう。

しかし、実際は違いました。

子供たちを迎える準備はもちろん進めていましたが、「本当に学校を再開できるのだろうか」頭の中にはそんな言葉がぐるぐるとめぐり、心の中は不安でいっぱいでした。

今も私たちを苦しめ続けるコロナウィルスの感染に対し、どう対応していくのか、校内で議論が続いていたからです。

2月27日の首相の一斉休校要請により、学校は3月2日より休校していました。

残念ながら、春休み中もコロナの状況は良くなりませんでした。

テレビで流れるニュースでは、緊急事態宣言が出されるかどうかが焦点になっていました。

4月4日、休校が5月6日まで延長となることが決まりました。

そしてそれは、4月10日に予定されていた入学式も5月に延期になることを意味していました。

休校延長と入学式の延期は、ある程度覚悟していましたが、それが決まったときやはりとても落ち込みました。

それでも、休校の延長が決まってすぐに今できることを考え始めました。

自分が大きなショックを受けているように、子供たちも保護者も大きなショックを受けているだろう。

ここで何もせずにいれば、子供たちも保護者も学校から心が離れていってしまうのではないか、そんな大きな危惧がありました。

突き動かされるように急いでその後の対応を考えました。



2.オンライン保護者会

学年をともに組む同僚と、「今できること」「今やるべきこと」について話し合いました。

職場に出勤制限がかかり、慣れないリモートでの話し合いでしたが、慣れないことを言い訳にしている暇はないように思っていました。

まず決めたことは、保護者会を行うことでした。

子供たちが学校に登校することができないという前例のない状況において、何より大切なことは、家庭と学校とが信頼で結ばれることだと考えたからです。

とはいえ、この状況での保護者会はどうしたらいいでしょうか。

教員会議と同様、Zoomを使ったオンラインでの実施を検討しましたが、オンラインでの保護者会などやったことはありません。

画面越しでこちらの伝えたいことは伝えられるのか、果たして信頼を生みだすことはできるのだろうか、もし失敗してしまったらどうしよう、そんな不安が頭をよぎりました。

でも、この状況で何もしないことこそが失敗なんじゃないだろうかと、そう奮起しました。

肝心の保護者会では、まず保護者に安心してもらおうと考えました。

そして、とにかくお互いに協力してこの状況に向かっていきたいということを伝えました。

家庭と学校が、「先生」と「保護者」という関係を越え、「私たち」になれるように心をこめて話すことが、今自分がやるべきことだと考えたからです。



3.動画配信

保護者会の開催はすぐに決めることができましたが、一方で、子供たちに何をどうすればいいかは、頭を悩ませました。

本来は4月10日の入学式で子供たちと私たち教員、そして子供たち同士も顔を合わせていたはずでした。

そこで、実際の教室では顔を合わせることはできなくても、子供たちの顔合わせもオンラインで行うこともできるだろうと考えました。

しかし、保護者会のようにすぐにそれを決断することはできなかったのです。

子供たちとの出会いは、もっと慎重に、丁寧に積み上げていくことが大切なように思ったからです。

小学校1年生をどうスタートするか、それは何事もないときにさえ、とても丁寧に考えられることです。

オンラインで子供たちとの時間を設けることは経験がなく、それを見切り発車で行うことは、非常に危ういことだと感じていました。

私たちが子供たちひとりひとりの個性も知らない状態で、また、子供たちも私たち担任について何も知らないなかで、初めての出会いを画面で行うことを決断することは、どうしてもできませんでした。

同僚と頭を抱えながら話し合いました。

まだ会えていない子供たちに、今できることはなんなのだろう。

やるべきことは何なのだろう。

さんざん悩んで、オンラインでの子供たち同士の顔合わせは、この時点ではやらないことにしました。

子供たち同士の出会いは、学校が再開したあとの5月に丁寧に行うこととし、その代わり、学校再開までの約一か月間は私たち担任がお手製の動画を子供たちに向け配信することに決めました。

動画の内容は、まだひらがなも学んでいない子供たちでも楽しめる内容を考えました。

具体的には、担任の自己紹介や学校の様々な場所や飼育動物の紹介、絵本を読み聞かせやおりがみ等です。

休校中の学習補助は目的としませんでした。

今やるべきことは学習補助ではなく、まだ学校に通うことができない子供たちが、担任の教員や学校に愛着が持てるようにすることや、学校に通えなくても学校を感じること、そして学校に通うことが楽しみになることだと考えたからです。

たくさん考え、それが学校という場を失った状況でも、私が先生としてできることだという結論に至ったのです。

最初の動画配信は、本当なら入学式を行っていた4月10日に配信することに決めました。

入学式が迎えられなくて残念に思う気持ちを、少しでも和らげたいと考えたのです。

動画を撮ることも、配信することも初めてでした。

学年を組む同僚と2人で苦心して撮影しました。

手作り感のあふれる稚拙な動画となりましたが、だからこそ伝わるものがあると信じました。

こうして4月は、オンライン保護者会と子供たちへの動画配信を行うという、つい1カ月ほど前には考えもしなかったことを決断し、実行することとなりました。


1年生に向けた動画配信の内容
4月10日担任自己紹介
4月13日学校紹介 その1
4月15日絵本の読み聞かせ
4月17日かみしばいの読み聞かせ
4月20日からだじゃんけん
4月22日なぞなぞ
4月24日学校紹介 その2
4月27日かみしばいの読み聞かせ
4月29日おりがみ
5月 1日あかずきんちゃんじゃんけん
5月 4日みんなへのメッセージ



4.休校の再々延長 「入学の日」

5月の初めには学校が再開する予定になっていました。

しかし、残念ながらそれはかないませんでした。

4月7日に出された緊急事態宣言が延長になり、休校も再々延長することになったからです。

前述の通り、登校再開を見越して、オンラインでは子供たち同士の顔合わせを行いませんでした。

しかし、さらなる延長が決まったことで、子供たちが顔を合わせられる日は、より先になってしまいました。

また、他の学年では、この再々延長の決定を機にオンラインでの授業が始まることが決まりました。

まだ入学式もできていない、それどころか、実際に学校に来たことがない1年生について、この先をどう考えるのか、決断を迫られました。

他の学年がオンラインで双方向の授業を始めるなかで、1年生だけが一方向の動画配信のみを続けるのだろうか。

1年生も授業を始めるべきではないだろうか。

ただ、初めて子供たち同士が出会う場が画面でいいのだろうか。

葛藤がありました。

決断をしたのは、学年を組む同僚の「私はもう待てません。子供たちに会いたいです。子供たちだって、たとえ画面だとしても、友だちや私たちに会いたいと思っているんじゃないでしょうか。」という力強い言葉でした。

「子供たちに会いたい」という素直な言葉は、まっすぐに私の心に届きました。

その言葉でぐるぐる悩んでいたことが嘘のように晴れました。

オンラインでも、子供たち同士を出会わせ、子供たちと私たちも出会い、そのうえで授業を始めていく方針を固めました。

5月11日、私たちの出会いの日に、「入学の日」という素敵な催しを行うことができました。

授業を始める前に、1年生が「自分は小学生になった」と思えるような催しが必要だろうと、小学部長をはじめ、教員が力を合わせ作り上げた催しです。

ステージに大きなスクリーンを立て、そこに子供たちの顔が映ります。

その様子はそれぞれの家庭に配信されます。

子供たちの名前を画面越しに呼ぶと、「はい!」元気の良い声が返ってきて、その子が画面に大写しになります。

真新しい制服を着た子供たちはみんな笑顔です。

その後ろにいる保護者も、とてもうれしそうでした。

きっと名前を呼ぶ私も、満面の笑みだったことと思います。



5.オンライン授業

「入学の日」の翌日からオンライン授業が始まりました。

子供たちの初めての授業がオンラインになることに大きな不安がありました。

実際に対面して行う授業では、子供の発言に加え、表情や身体の動き、ともすれば息遣いのようなものまで、一挙一動を無意識のうちに感じ取っていました。

それが画面を細かく分割した小窓から、子供たちの様子を伺わなくてはいけなくなるのです。

少しでも子供たちひとりひとりをよく見られるようにするにはどうしたらいいだろうか。

頭を悩ませ出した結論は、1年生は36人のクラスを2分割し18人ずつ授業を行うことでした。

子供を丁寧に見るために授業の人数を少人数にすることは、教室での授業でも効果的な方法です。

オンライン授業ならばさらに効果的になると考えました。

なぜなら、18人になら、1画面に全員の顔が映しだすことができるようになるからです。

経験の無いオンラインの授業に臨むにあたり、学校では、授業をする教員に加え、オンライン環境を保守する役目の教員の2名で授業を行う体制が整えられました。

そこで、1年生では、授業と環境保守を1人の教員が兼任することで、クラス2分割授業をすることにしたのです。

行う授業の回数は2倍になり、労力をかけることになるが、それをする意味のあることだと考えました。

いよいよオンラインでの授業が始まりました。

とても緊張しながらも、教室でそうするように、画面に向け笑顔で子供たちを迎えていきます。

ひとり、またひとりと画面に見える子供たちが増えていきます。

表示される名前を頼りに、画面に映る子供に向け名前を呼んでいきます。

元気な返事が返ってきます。

「アリック!!」私のニックネームを呼ぶ子もいます。

配信した自己紹介動画を見たのでしょう。

私が好きだと伝えたレッサーパンダのぬいぐるみを画面に見せる子供もいました。

まだ実際に会えていない子供たちが、少なからず自分に愛着を感じていることが伝わってきて、胸がいっぱいになりました。

初めての授業はあっという間に終わりました。

思っていたよりスムーズに授業は進みました。

そして何より、子供たちが授業を楽しみにしていてくれたことが強く伝わってきました。

順調に始められたオンライン授業でしたが、1週間経つ頃には、やはり難しいこともいくつか分かってきました。

そのなかでも特に深刻だと感じたことは、子供たち同士が関わり、お互いを知り合う場面が非常に作りづらいことでした。

どうやったら教室で行っていたペアトークやグループでの話し合う活動をオンラインで行えるか模索しました。

同僚や他の学校の実践を参考に、ブレイクアウトルームという機能を使うことにしました。

この機能を使うと、子供たちを2人ペアや4人グループにすることが簡単にできます。

ただ、難点は、そこでのやりとりの様子を教員は把握することができず、うまく関われない子供を助けることができません。

まだ実際に出会えていない子供たちにとって、少人数での活動はハードルが高いのではないか。

それでも、オンラインとは言え、子供たちはクラスで授業を受けていることには変わりはありません。

クラスで授業を受ける意義は、子供たち同士が関わることにあると考えます。

難しさは感じながら、ブレイクアウトルームを使った、ペアトークやグループでの話し合いの活動を何とか始めていくことにしました。

活動に少しずつ慣れていくため、初めは自分の名前を相手に伝えるだけという取り組みやすいものを考えました。

そして、徐々にやりとりが単語から文章に、そして会話になるように、トークのテーマを設定していきました。

活動を始めたころは、グループの小部屋から戻ってきたときに、うまくいかなかったのか浮かない表情をしている子もいました。

しかし、回を重ねるごとに「もっとやりたかった」「明日は何をするの」という声が聞こえるようになってきました。

子供たちはこの活動が大好きになっていきました。

子供たちの適応力の高さに驚き、また、やはり子供たちが関わり合うことに学校の意味があると再確認しました。


ブレイクアウトルームでのペア・グループトークのテーマ
①自分の名前を言う
②好きな食べ物・動物を言う
③相手の名前を聞いてみる
④しりとり
⑤自分の宝物を見せ紹介する
⑥いろおに(指定された色のものを探して、画面に見せ、紹介する)



他にも、オンラインの授業では、子供たち一人ひとりとじっくり向かい合う時間がとれないことも大きな課題だと感じました。

そこで、放課後の時間に、保護者も交えた三者面談をすることを考えました。

急に面談をすると言われても、子供たちは緊張してしまうだろうと思い、あらかじめ聞きたいことを伝えました。

子供たちには「大切な宝物」と「みんなでやりたい遊び」を話してもらい、保護者には「お子さんの自慢話」を話してもらいました。

子供たちと私がじっくり出会うことを目的とした面談の時間は、とてもよい時間になりました。

宝物を誇らしく紹介する子供たちの姿も、自分の自慢話をする保護者の横で照れくさそうにする子供たちの姿も、とても愛らしかったです。

正直に言えば、限られた時間の中で子供たちのことを知ることは難しかったです。

でも、少しの時間でも、個別に話す時間ができたことで子供たちとの距離が確実に縮まったことが分かりました。



6.念願の登校再開

6月8日に念願の登校が再開しました。

クラスを半分に分ける分散登校でしたが、それでもようやくの、念願の登校でした。

「おはようございます!」元気に入ってきたのは男の子。

後に続いて多くの子が教室に入ってきました。

教室に子供たちが帰ってきた、それがとてもうれしく、胸に迫るものがありました。

実際に会うことは初めてでしたが、私は全員の顔と名前が一致しました。

子供たちも私の名前を知っていました。

そして、私は子供たちをすでにとても大切に思っていて、子供たちもきっと私に愛着があったと思います。

何よりうれしかったのは、実際に会うことは初めての子供たち同士が、お互いの名前を呼び合い、まるですでに友達であるかのように接していたことでした。

この2カ月、実際の教室に子供たちが通うことができないなかで、それでも「学校」をやろうと試行錯誤をしていました。

目の前の子供たちの笑顔はその成果だと思えました。


休校の記録でした。




2021年2月27日土曜日

素敵なこと 素敵な人 素敵な職業

 素敵なことが起きた。

1月初め、地域にある中学校の、通りに面したフェンスに、生徒が作った「コロナカルタ」が飾られた。この状況を前向きに生きていくために生徒が紡いだ言葉にイラストが添えられている。通りがかるたびに、「いいなあ」と勇気づけられる思いで眺めていた。今の状況で、こういう作品を発信することは、ひょっとしたら心無い反応が返ってくる恐れもある。同業者として、その中学の先生たちにほのかな敬意を抱いていた。
冬休みがあけてしばらくすると、隣のクラスの担任の若い女性が、「有馬さん、スーパーの隣の中学のコロナカルタ見ました?あれいいですよね。あれ、やりませんか?」と相談を持ち掛けてきた。それがとてもうれしかった。(自分がそういう発想にならなかったことに、ちょっぴりくやしさもあった。)もちろん2つ返事で「やろう!」。次の日にはカルタの台紙を作った。
小学校1年生の作品だから、中学生に比べればつたないものだけれど、なかなかいいものができた。「君たちの作品に背中を押されたことがきっかけなんだよ」と中学生に伝えたくて、作品を掲示したものを写して、地域の中学に持って行った。(子どもにもそれは伝えた。)
まったくアポも無く、突然伺ったので、授業をされた先生には会えなかったけれど、写真と感謝の気持ちを渡していただけるように頼んだ。「ぜひ生徒のみなさんにも!」
それから1週間後、突然教室の電話がなった。中学の先生からだった。子どもたちが作品を作ったことを生徒のみなさんがとても喜んだこと、それからなんと「よかったら相互鑑賞をしませんか?」そんな提案だった。子どもたちの作品には中学生のお兄さん、お姉さんがコメントを寄せてくれるという。これももちろん2つ返事で了承した。となりの担任の彼女も賛同する確信もあった。
そして無事に会議も通り、実際に相互鑑賞を行うことになった。
昨日、子どもたちが帰った後に中学生のお兄さんお姉さんが作ったカルタを教室の隣の部屋の壁に飾った。色とりどりにデザインされたカルタのおかげで壁が鮮やかになった。月曜日に登校してきた子たちの驚きの声が想像できてうれしくなった。そして1枚1枚の作品を見て、次は感嘆の声が漏れるだろう。
お兄さんお姉さんは、飾られた子どもたちの作品をどんな気持ちで見てくれるのだろう。きっと温かな気持ちになるって、僕は知っている。
この流れに僕が心を温められている。中学校の先生たちが掲示をしたこと、同僚がそれを見て「やりたい」と言ったこと、生徒のみんなにそのことを伝えたくて持っていった僕自身、それから相互鑑賞をしようといってくださった先生。
みんなそれぞれ、ちょっとずつ勇気を出して行動した結果だと思う。「子どものため」、使い古された言葉だけれど、やっぱり僕たち教員はそういう気持ちをみんなが持っているんだと思う。一部の先生だけでなく、市井の教員みんなが持っているんだぜ。素敵でしょう。

2021年2月14日日曜日

ウネリウネラのブログへの投稿②

  東京の郊外の小学校の1年1組での、ある日のひとこまです。

 それは木曜日の午後のことでした。天気予報より早く、お昼過ぎに降り出した雨。それを横目に見ていた子どもがひとこと、「アリック、雪になった。」と言いました。窓の外に目をやると、雨がいくぶんか大粒になっていましたが、雪には見えませんでした。「雪ではないんじゃない。雨だよ。今日は雪にはならないんじゃない。降ってほしいけどね。」そう言いながら、一度止めた手をもう一度動かしながら、黒板に算数の式を書いていきました。予定していたところまで算数がすすむか心配だったのです。

 しばらく授業をすすめていると、また子どもの声。「やっぱり雪だよ。」子どもたちの目が一斉に窓の外に向きます。お願いだから授業に集中してくれよと思いながら、ふたたび窓の外を見ましたが、やっぱり大粒の雨に見えました。「雨でしょう。今日は降らないよ。さあ、授業に集中しよう。」

 「いや、やっぱり雪だって。」授業に戻ろうとした僕を引き留めるような大きな声がしました。声の主はみきさんでした。驚きました。普段は授業中に大きな声なんて出さない子です。みきさんまで、と少し苛立ちながら、仕方なくまた窓の外を見ました。さっきの雨よりどこか白く見えました。

 「まさか」と思ったことが表情に出たのでしょう。子どもたちも一斉にまた窓の外を見ました。するとさっきまで雨だったはずなのに、空から降ってくるそれは、だんだんと雪に変わっていきました。時間にすると短い時間だったことでしょう。でも、雨が雪に変わっていく様子は、まるでスローモーションのように見えました。見とれてしまいました。

 「ほんとうだ、雪だ」僕がつぶやくのと同時に「雪だ!雪が降ってきた!」と教室のあちこちから声がしました。子どもたちの目は窓の外にくぎ付けです。みるみるうちに雪は勢いを増しました。

 初めに席を立ったのは、ふだんはおとなしくて目立たない小柄なのりくんでした。飛び上がるように席を立って、一気に窓際に走っていきました。それはあっという間の出来事でした。窓に両手をついて、大きな目をさらに大きく真ん丸に開けて、彼はこう言いました、「学校でみんなで雪を見るのは初めてだね!」

 その言葉がすごくうれしくて、僕はもう白い雪に白旗をあげました。算数はおしまいです。あきらめました。「残りの時間はみんなで雪を見よう。」教室に大歓声があがりました。子どもたちがテラスに出ていきます。35人の子どもたちはみんな空を見上げて、空から落ちてくる雪を眺めていました。僕はそんな子どもたちの横顔を眺めていました。

 東京の郊外の小学校の1年1組での、ある日のひとこまでした。

ウネリウネラのブログへの寄稿①

 https://uneriunera.com/2021/01/18/kodomotachi/


緊急事態宣言が出されている中で、小学校1年生の3学期始業日を迎えました。

毎朝、子どもが教室に入ってくる前に、黒板に朝のあいさつとメッセージを書きます。しばらくぶりに会う子どもたちに、「あいたかったよ。」、そう素直な気持ちを書きました。

冬休み明けの初めの日になるので、年末に片づけたものを、朝来た子どもから順に元に戻してもらうために、その手順も黒板に「あさ やること」として書いていきます。どんな順番にやってもらおうか、ちょっと考えて、白いチョークで「1.ともだちに「おはよう!」」と書きました。机に載せられた椅子を降ろすことや、棚にしまわれた道具箱を準備することよりも、何よりも初めに、クラスメートとの再会を喜んでもらいたいと思ったからです。

「おはよう!」たかしくんは元気に大きな声を出すだろうな。「おはよぅ」とはにかみながら返すのは、みほちゃん。ひとりひとりの子どもがどんなふうに「おはよう」のあいさつを交わすのか、それを想像すると、誰もいない教室で、ひとり笑顔になりました。

でも、はっとして、黒板消しをとり、今書いたことを消しました。そのかわりに書いたことは「1.マスク・てあらい」。僕たちは、“新しい日常”の中にいることを思い出したのです。「おはよう」のあいさつの前に「マスク・てあらい」。“新しい日常”の居心地の悪さを感じながら、それを呑み込むように「2.ともだちに「おはよう!」」と続けて書いていきました。

始業時間が過ぎ、子どもたちが教室に入ってきます。「アリック、あけましておめでとう!」(僕は子どもたちから「アリック」と呼ばれています。)「あけましておめでとう、ゆうきくん。」

久しぶりに友だちに会う高揚からか、普段より大きな声のやりとりがあちらこちらから聞こえてきます。「そのマスク、初めて見た!かっこいい!」「おばあちゃんが作ってくれたんだよ。」うれしそうに答えるのは、せいやくん。子どもたちは様々な色や柄のマスクを、洋服のように楽しんでいる様子が見えます。

マスクのせいで子どもたちの顔は半分しか見えません。顔の小さいまりさんにいたっては、目のところだけがちょびっと見えるだけです。初めは表情が見えづらく感じました。でも、マスクには隠されない目元に表れる表情を、僕はいつの間にか読み取れるようになりました。みなさんは、どうでしょうか。

毎朝行っている絵本の読み聞かせ。3学期の一冊目に、どんな本を読むかは、それなりに迷いました。何か特別なメッセージが伝わるような、そんな一冊にしようかと考えましたが、悩んだ末、かがくいひろしさんの「おもちのきもち」を選びました。言葉遣いのとても丁寧な鏡餅が、床の間から逃げていく、そんなとっても愉快な一冊です。伝わってほしいメッセージはありません。ただ3学期の1冊目をめいっぱい楽しんでほしいと、そう思いました。不安が日々を取り巻いても、教室の中は安心と楽しさで満たそう、そんなふうに思って選んだ一冊です。

読み聞かせると、教室は笑いにあふれました。マスクで半分が隠れた子どもたちの表情も確かに笑って見えました。それを見て、何より自分自身が安心しました。僕の好きな日常はこれだなあと思いました。

(子どもたちの名前は仮名です。)

2021年1月10日日曜日

旅を回顧する

この文章を書いている2020年8月、本当なら日本を飛び出し旅行を満喫しているはずだった。コロナの影響でそれは叶わなくなった。この苛立ちをどこにぶつけようか。
振り返れば、2000年から2010年にかけて、20代の頃はいつもひとりで旅に出ていた。旅行ではなく「旅」なんて言うと大げさな気もするけれど、あれから10年が経って振り返ってみると、あの日々はやっぱり旅行ではなく、旅と言うほうがしっくりくるのだ。
無計画で無鉄砲な旅を回顧したい。

あの頃、長期休みのたびに、リュックをひとつ背負って、世界のあちこちにでかけていた。目的地は主にアジア。そのなかでも、中国や台湾、そしてインドやバングラデシュには、複数回足を運んだ。それからタイのバンコクはインドやヨーロッパへの経由地として何度も利用した。
当時、バンコクで航空券を手配すると、日本では買えないようなめずらしい航空券が割安に手配できた。日本人経営の旅行会社がいくつかあったので、手配もそこまで難しくなかった。今のように航空券をすぐに検索できるのではなく、膨大な航空券が記載された表の中から希望する航空券を探し出す。その作業も楽しかった。
2005年にトルコのイスタンブールから入って、フランスのパリから出るエミレーツ航空の割安の航空券を見つけたときはとびあがるほどうれしかった。旅の途中にバンコクで宿泊するときは、チャイナタウンに出かけ、900円くらいで食べられるふかひれスープを味わうことが好きだった。

「旅の面白さは荷物の重さに反比例する」そんな旅人の格言を信じていたから、たとえ3週間の長い旅でも、シャツとパンツは3セットまでと決めていた。部屋で洗濯物を干すときに使う洗濯紐と、手洗いのための洗剤の粉は必ず持っていった。宿の周りで安い洗濯屋を見つけるとうれしくてたまらなかった。

今のようにはインターネットからたくさんの情報をすぐに引き出すことはできなかった。スマホはなかったし、ネットをするには街中でネットカフェを探さなくてはいけなかった。ようやくネットカフェを見つけても、速度が遅かったり、そもそも日本語が表示できなかったりすることも多く、情報にアクセスすることは容易ではなかった。情報源は主に図書館で借りた地球の歩き方だった。それを読み込んではいたけれど、あえて旅程を細かく立てることはしなかった。ひとりだから許される気楽な行き当たりばったりを楽しんでいた。

初めての街に着くそのときが一番わくわくした。好きな到着の仕方は夜行列車。カーテンを開け、車窓に飛び込んでくる陽の光と聞きなれない言葉が行き交う喧噪で朝が来たことを知る。知らない街の知らない駅のホームに列車が着く。列車から降りて、駅の出口を探す。駅から一歩外に踏み出す。そして街を見渡すとき、決まって気持ちが高揚した。ガイドブックの地図から街の様子を想像するのだけれど、その想像が当たったことなんて1度も無かった。目の前には想像とは違う初めての街の風景が広がっていて、途方にくれ、とても心細くなる。矛盾するようだけれど、この心細さと胸の高鳴りは同時に襲ってくる。その形容しがたい妙な高揚がたまらなく好きだった。

宿は現地についてから探した。街行く人にたどたどしい英語で安いホテルの場所を聞いてまわる。たどり着いたフロントで部屋を見せてもらうよう頼む。
貧乏旅行を気取っていたので、安宿ばかりを使っていた。今では考えられないけれど、アジアでは一泊1000円を下回るような宿を愛用した。その値段で泊まれる部屋は、たいていは部屋の中にベッドとテレビだけという殺風景な部屋であることが多かった。そこにエアコンがあるかないかで値段が変わる。それからホットシャワーの有無も重要。お湯が出るかどうかでも値段が代わるのだ。水シャワーもへっちゃらだった。若かったのだ。ときには見知らぬ人と相部屋になるドミトリーにも泊まった。深夜に鳴り響く大柄なロシア人のいびきがうるさくて眠りにつけなかったことも、今ではよい思い出だ。

そして安宿でさえ、必ず宿賃を値切っていた。なんともけちなようだが、それが当時世界中にいた日本人バックパッカーの流儀だった。旅先で日本人バックパッカーに会うと「どこどこの○○って宿は一泊いくらで泊まれるよ」なんていう会話が挨拶代わりだった。

00年代前半当時、電波少年というテレビ番組の海外ヒッチハイク企画の影響で、日本人バックパッカーは世界中に多くいた。バックパッカーの聖地であったバンコクはもちろんのこと、地球の裏側にあるメキシコシティでも日本人バックパッカーに会うことができた。

バックパッカーに人気の安宿には、必ず「情報ノート」という手書きのノートがあった。貼り付けられたチラシなどで、ずいぶん分厚くなったノートには、たくさんの人が様々な情報を書き込んでいた。安くておいしいレストランの情報は定番だったし、有名観光地にどうやったら安くたどり着けるかなどの情報も多かった。それから周辺の都市のおすすめの宿情報は次の目的地選びにとても役に立った。夜の街や薬物など危ない情報も書かれていた。そこには旅人の生の情報がこれでもかというほど書き込まれていた。それは地球の歩き方には書かれていない情報だった。顔も知らない誰かの書いた情報を自分のメモ帳に写す。そこから実際に行動に移すことにはある程度の勇気が必要だった。それはまるでRPGのゲームを生身で経験しているようだった。「イスタンブールのバスターミナルの54番のカウンターはソフィア行のバスのチケットが1番安い」「ブダペスト駅前のソフィテルホテルのカジノは20時に無料の軽食とドリンク有。食事代を浮かせることができる。要パスポート。」20年以上が経った今でも必死に写したノートの内容を思い出すことができる。

「日本人宿」と総称される日本人がたまり場とする安宿も世界中に点在していた。日本人宿には何か月単位で長期滞在する旅人もめずらしくなく、共同生活のような小さなコミュニティがあった。僕はこの日本人宿があまり得意ではなかった。ひとり旅ではひとりになりたかったのだ。情報ノート見たさにふらっとおじゃまするようなことはよくやっていたが(安宿の共有スペースへの出入りはすごくゆるやかであることが多かった)、実際に宿泊することは滅多になかった。それでもメキシコシティの「サンフェルナンド館」やイスタンブールの「ツリーオブライフ」、ソフィアの「バックパッカーズイン」など、良い時間を過ごすことができた宿もある。2004年にサンフェルナンド館で出会った大学生とはメキシコのプロレス・ルチャリブレを一緒に見に行ったし、2005年にツリーオブライフで出会った同い年のとおるくんとは情報ノートを頼りにバスを乗り継いで、ガイドブックにはのることのない現地の人だけが使うようなトルコの伝統的銭湯ハマムを探し歩き、一緒にサウナを満喫した。今になってみれば、もう少し日本人宿に挑戦してもよかったのかもしれない。面白い出会いがあったかもしれない。

天邪鬼な性格だったから、日本人宿があるようなバックパッカーに人気の街よりも、あまり人気のない街に積極的に足を運んでいった。

2006年に訪れた西インドは思い出深い。インド最大の都市であるムンバイから始めた旅の目的は、遺跡を見ることだった。子どもの頃から遺跡に興味があった。シュリーマンの古代への情熱を読み、同じように情熱に胸をたぎらせた。西インドで楽しみにしていたのは、アジャンタとエローラの石窟群を見ること。岩壁をくりぬいて作られた美しい仏教とヒンドゥー教の寺院群は期待を裏切ることのない素晴らしさだった。感動で胸が震えた。特にエローラの巨大な岩の崖を削って作られたカイラーサ寺院の美しさは筆舌に尽くしがたかった。1000年以上昔の人間がこれを生み出したかと深い敬意が自然と湧き上がった。
 
西インドの旅は、アジャンタとエローラが見られただけで、その目的は果たしたのだけれど、最大の感動はその後にあった。地球の歩き方に小さく「マンドゥ」という街の情報が載っていたのだ。街の名は聞いたことが無かった。旅人の間でも話題に上がったことはない街だった。遺跡群があるらしい。誰も行かない街だからこそ、興味をそそられた。

マンドゥへはムンバイからバスを乗り継いで10時間ほどかかった気がする。途中の経由地である2つの地方都市でバスを乗り換えることはそれなりに難儀して、さらに最後のバスは小さく暑く、狭い車内で膝の上にのせたバッグを抱えて背中を丸くしながら5時間。バスの車内でマンドゥへ向かったことを後悔していたことを覚えている。

マンドゥには夕方着いた。街の入り口付近にあった宿を訪ねた。宿探しをする気力はすでになく、通されたコテージは簡素だったけれど居心地が良さそうだったので、そこに決めた。その日はすぐに休むことにした。宿のレストランで食べたほうれん草とチーズのカレーがすばらしい味で、さらに空を見上げると満点の星空だった。小高い丘にあった宿をそっくり星空が包んでいた。ひとり旅の切なさは感動を伝える相手がいないこと。今こうして14年越しに文章でそれを伝えられて感無量だ。

翌朝宿で自転車を借りて、街を回った。街の真ん中にはメインロードが一本走っていて、あとは細い未舗装の道が葉脈のようにメインロードから伸びていた。街のあちこちにインドでは他で目にしたことのない巨大なバオバブの木が生えていて、赤茶けた乾燥した土地にその姿が映えて見えた。驚いたことに、30分も走れば街の端までついてしまった。マンドゥは本当に小さな素朴な街だった。店も街の中心のあたりにいくつかあるだけだった。しかし、とにかく素晴らしかった。その小さな街の中心には、イスラム寺院の跡があった。それだけでなく街のあちこちに18世紀までその地に存在していた都の跡が点在していた。そして城や寺院の跡が街を取り囲んでいた。遺跡は見世物としては一切整備されておらず、ただそこに朽ちてあった。広大な遺跡群の真ん中あたりに、ぽつんと小さな村があった。イスラム寺院の跡の上では朝のバザーが開かれ、自家製の野菜を広げたおばあちゃんは、その人懐こい笑顔を汚らしい異邦人の僕にも向けてくれた。遺跡は素朴な村の生活とともに、ただあった。その風景に感動した。どうしてかうまく言えないのだけれど、過ぎ去った栄華の跡に、朴訥とした小さな生活があることに、続いていく人の営みや歴史を感じ、それに感動したのだと思う。

旅に出ると、知ることがたくさんあった。

2004年の中国への旅も忘れることができない。2004年当時、サッカーのアジアカップをきっかけに、中国で反日感情が爆発しているという報道が連日なされていた。それに比例して、日本人の反中感情も高まっていたように思う。そんな2004年の12月に仙人の住む山、まるで水墨画の風景そのものと称される黄山という山に登ってみたいという目的で、僕は中国へと旅に出た。

反日感情が高まっているという報道はもちろん知っていたから、警戒していた。自分自身も、黄山への興味はあったけれど、中国人には良い感情は持っていなかった。しかし、そんな思い込みはいとも簡単に覆ることになる。

入国した上海では浦江飯店というクラシカルな高級ホテルに泊まった。なんて書くと格好いいが、今でこそ安宿が増えた上海には当時、安宿がまったくと言っていいほど無く、バックパッカーには、この浦江飯店の屋根裏のドミトリーに泊まることが裏ワザとして知られていた。おそらく本来は従業員用の寝床であろう部屋には、シャワーなんてものはなく、シャワーを浴びたければひとつ階を下って、従業員用のシャワーを借りなくてはいけなかった。シャワーにたどり着き、体を洗い流す。そのときに石鹸を持ってくるのを忘れたことに気づいた。日本を出てきてから何時間かが経っており、さっぱりしたいところだった。石鹸で体を洗えないことが残念で肩を落としていると、それに気づいたのだろうか、となりのシャワーブースで体を洗っていた中国人の青年が、だまって自分の使っていた石鹸を差し出してきたのだ。これには驚き、えらく感動した。自分にはそんな親切はできないからだ。「シェイシェイ」たどたどしい中国語で伝えると、まだ10代だろうか、若い青年ははにかむだけだった。

夜行列車で黄山まで移動した翌々日、いよいよ黄山登山に挑戦した。黄山の登山は階段などが舗装されていて、とても簡単だとガイドブックには書かれていた。それが実際はどうだろう。運が悪いことに、何年かぶりの大雪のあとで、それはなかなか過酷な登山になった。
ひとりで心細く、しかも途中の案内図は中国語でさっぱり分からない、でも、出会う中国人はひとり残らず道を説明しようとしてくれた。山の道の案内だ。街の道案内のようにはいかない。それでも誰もが必死に道を僕に教えようとしてくれた。
人々の善意に支えられ、なんとかホテルにたどり着くことができた。疲れ果てていて、大きな目的のひとつだった御来光の時間に起きられなかったことが今でも悔やまれる。

翌日は、黄山のふもとにある宏村という村落に向かった。宏村は周辺の近代化から忘れ去られた昔ながらの姿と生活様式を残す村だった。
宏村では気がつくとひとりの少女が道案内を始めてくれた。特に頼んだわけではない。気がつくと隣にいたのだ。宏村は世界遺産に登録されていたものの、発展から取り残された古い村で、中国政府はそこを積極的に宣伝していなかった。入村には許可とお金が必要で、その時は外国人観光客の姿をほとんど見ることはなかった。外国人がめずらしかったのか、そのかわいらしい15歳くらいに見えた女の子は、僕に中国語で一方的に話しかけ、手を引っ張って街のあちこちを案内してくれた。中国人は反日なんて誰が言っているんだろう。自分のことを棚にあげ、そんないら立ちを感じたことを覚えている。

宏村から黄山の鉄道駅へ向かうことが大変だった。観光地としてはあまり注目されていなかったせいか、公共交通の便がなく、やっと見つけたバス停にはいつまで経ってもバスは来なかった。1時間以上バス停で待ちぼうけをしてから、勇気を出して初めてヒッチハイクをしてみた。うまくいくのだろうかとおそるおそる指をあげてみると、しばらくたって目の前で1台のバイクが停まった。バイクのお兄さんは、「トレインステーション」という僕の言葉にうなずき、後ろに乗せてくれた。そして、駅前で僕をおろすと、何も言わずに走りさってしまった。中国人は日本人が嫌いで、憎んでいる。そんなこと、誰が決めたのだろう。思い込んでいた自分が恥ずかしくなった。

この上海、黄山の旅を経て、僕の中国や中国人への見方は変わった。その後も中国には何度か足を運んでいる。

こんなふうに旅の思い出を綴りだしたら、いくらでも書けてしまう。愛するバングラデシュのこともまだ書いていないし、「真夜中のドイツで言葉の通じない世界の男たちの心がひとつになった瞬間」のエピソードなんて、誰かに伝えたくて仕方がない。カーンチプラムやクトナーホラにグアナファト、たくさんのきれいな風景を見てきた。最新の情報はひとつもないし、誰かの思い出話を聞かされ続けるのはたまったものじゃないと思うけれど、でも聞いてほしいからまた何かの機会に書きたい。ばかばかしい話もたくさんあるし、きっと感動させちゃう話だってたくさんある。淡い恋愛の話は残念ながら無いのだけれど。

旅はいくつもの思い出を僕に残してくれた。大切なことをいくつも知ったし、しなくてもいい経験もいくつも重ねた。それから時に危ない思いもした。

無計画で無鉄砲で、何より向こう見ずな冒険のようなひとり旅は、家族を持ってもうできなくなった。けれど、それでも今いる場所から旅立つことで、見えるものや知られるものがあり、会える人がいるのではないかと思う。早くコロナがおさまってほしい。まだ世界は僕を待っていると思いたい。