2020年2月15日土曜日

青木将幸 ファシリテーション講座 2020.2.8 2.9


2月8日・9日 清瀬市アイレック 青木将幸 ファシリテーション講座

 とにかく奇跡のような講座だった。

 初日はどこか疑っていた自分がいた。青木さんのことは、岩瀬さんとその周辺の人たちから知っていたけれど、「すごい」と周りが言えば言うほど、本当にそうなのか疑っている自分がいた。何か意固地だったのかもしれない。
 せっかく参加するのだから余すことなく学ぼうとする自分と、本当にすごいのか見極めてやろうみたいなひねくれた自分が同居する状態で1日目を迎えた。

 青木さんは思っていたよりずっと個性的な人だった。落語家のような軽妙洒脱な語り口だ。これまで出会ってきたファシリテーターは、努めてニュートラルであろうとしていたような気がする。それが青木さんは個性的。ただ、受容的ではあった。その受容的なものが何から来ているものなのかは、この時点では気づかなかった。

 好物をかいて、それを持ってやりとりをするアイスブレイクから始まった講座は、参加者の質問を募ってそれに応える形で進んでいく。非常に非構成的な、はっきり言えば行き当たりばったりに思える形だった。
 ただ、「質問・発言 いつでも歓迎です」と紙に貼られ提示されたことが、建前でなく、徹底して守られていた。参加者はそれぞれに、自分の言いたいこと、聞きたいことを、そこまでの流れを無視して(少なくとも僕はそう感じた)質問を繰り返す。腰を折るようなタイミングと内容だ。青木さんはそれにいらだつ様子は見せず、時に目を閉じて質問をまるで味わうように沈黙し、そしてまたユーモアを含めながら答えていく。
 なんとなく芯の無いような形で時間が進んでいく。そのなかで印象的な言葉もいくつかあった。それを聞くことができていたので、それなりに講座の意義は感じていた。そのまま終わっていたら、この振り返りも印象的な言葉を羅列するのみだったかもしれない。でも、それ以上に実りのある実感を得たので、今回の振り返りではそれを書くことはやめる。

 ようやく実習らしいことが始まった。会議の4段階を体験するワークだ。会議の4段階とは共有・拡散・混沌・収束だ。良い会議・悪い会議の要素をひとりずつ書き出し、3人で共有する。3人ともそうだとうなずけるものには、花丸をつけていく。花丸がついたものを全員で出し合い、良い会議・悪い会議に分け模造紙に書き出していく。最後はひとり4枚のシールを持ち、自分が大切と思うものにつけていく。

 「拡散はきちんと意見を出し切ることが大切です。」と言う通り、ところどころで「他にはないですか?」「言い忘れたことはないですか?」という投げかけがあった。
 事件は「良い会議・悪い会議」の要素にシールが貼り終わり、参加者全員の納得が会場をゆるやかに満たしたと僕が感じていたときに起こった。
 「他にはないですか?」青木さんの問いかけに、ひとりの参加者が手を挙げる。「安心して意見が言えるためには、どうしたらいいんですか?」「安心して意見が言えるためには、どうしたらいいんですか…うーん、どうしたらいいんでしょうか。今、この場では安心して言えなかったということでしょうか?」「そうじゃないんです。今は言えました。でも言えないんです。」少し迷った様子の後、その人は語りだした。
 詳しく書くことははばかられるが、それはかなり心境の吐露で、しかもその感情の矢印が、その人が一緒に来た人に向けられていた。
 僕は驚いてしまった。だって、そこはオフィシャルな場だったから。よそいきの場所だったから。みんながかりそめの自分でいる場だと考えていたから。そこに急に生身の感情が放り込まれた。誰にでも伝わるくらいの切実さを持っていた。
 驚きを通り越して、僕はずいぶん動揺していた。まさかこの場所でこんな本当の場面がやってくるなんて思わなかったからだ。本音の持つ逃げ場の無さみたいなもので自分の周りが満たされて、とても息苦しく感じた。
 いったいどんなことになってしまうのだろう。言葉が一段落するのを見計らって、場を和らげるためにちゃちゃを入れた。狙った通り笑いが起きる。でも、場が弛緩したのはひとときだけだった。
 このあたりの記憶はあいまいだ。僕は動揺していた。どうやって青木さんが介入したのかは覚えていない。おそらく、介入しなかった、ように思う。青木さんはただそこにいた。まったくの動揺を見せずに、こんなに生身の感情が突然投げ込まれた場に、それまでと同じように、ただいたのだ。
 気が付くと、場が落ち着いていた。青木さんはこんなふうにまとめていた。「安心して意見が言えるようにするには「最後まで聞き続ける」「報復はしない」ことです。」その場しのぎのようなちゃちゃを入れていたことが途端に情けなくなって、頭を抱えてしまった。これまでも同様の状況の場では、同じようにふるまってきた。雰囲気を感じ取って、気を遣って場をゆるやかにしているつもりだったかが、それは結果として一番の当事者を傷つけていたのかもしれない。それに気づいて、頭を抱えてしまった。

 会場全体を覆っていた緊張が解かれ、自分も動揺が少しずつ収まってきたときに、休み時間になった。青木さんに質問をした。「どうしてあの場で動揺せずにいられたんですか。動揺しなかったんですか。」「してないです。」このあとのやりとりが思い出せずくやしい。僕はこのやりとりで何度もうなずいていたはずなのに。ただ最後に青木さんはこう結んでいた。「参加者を子どもだと思って寄り添うんです。」そう言って腕を広げていた。
「拡散でなく、混沌のときに物事は生まれていく」「クリエイティブカオス」「泥の中から蓮が生まれる」僕は混沌のなかにただ立つ覚悟が持てるのだろうか。「抜けない混沌はない」。この言葉を肚落ちさせるために混沌に飛び込めるのだろうか。

 2日目の朝、始まる前の会場に、1日目とはまったく違う心持ちでいる自分に気づいた。ただそこにいる青木さんの一挙一動を見ようという気でいたのだ。「職場の会議をどうやったら…」なんていう気持ちはまったく薄れていて、それよりも青木さんの姿から学ぼう、細かい振る舞いに気づき、自分を省みよう。そんな気持ちでいた。変えるものが、会議・職場から自分に変わっていたのだ。ああ、こうして振り返っていても驚く。

 2日目は1日目よりずっと構成的だった。今何を学んでいるのかが明確だった。でも、もし1日目からそれだったら、僕は心からそれを学んでいただろうか。
 1日目の話が思い起こされる。大学で講師をしたときのエピソード。1回目の授業では何もしないで帰ったことや、学生の「寝たい」「パンを食べたい」「映画を見たい」という要望をすべて受けて、その通りにさせたことだ。次の授業でようやく学生から「学びたい」という言葉が漏れてくるという。まさに自分の身に起きたことがそれだ。非構成の1日目に起きたことを通じて、この人から学びたいという気持ちに心からなっていた。1日目と2日目では自分が違う人のように、その場にいた。大げさじゃないのだ。その通りのことが起こったのだ。
 
 1日目は注目しなかったことに目がいき、聞き取れる。わかります・その通りだと思いますね・なるほど・はいはい・結構ですね・結構なことだと思います・うん。わかります・ありがとうございます・無言でゆっくりうなずく・目を閉じて意見を反芻するように小さくうなずきながら沈黙する・復唱。ただそこにいる青木さんの、ただそこにいる振る舞いが見えてきた(気がした)。

 聞くトレーニングのワークを行う。会場からの質問に、初日と同じように青木さんが答えていく。それを聞きながら、ふと気づく。「相手が言葉につまったときに、助け舟を出すことは、本当に助け舟なのか。」これは青木さんが言った言葉ではない。僕の中から出てきた言葉だ。でも、とても大切な気づきだと思った。僕はファシリテートされていた。

 2日目も事件が起きた。1日目と同じように、生身の感情が、それも複数、突然場に投げ込まれた。あるワークがまったくうまくいかなかったようだ。良かれと思って仕切ろうとする人の存在が、別の人のやる気を奪い、その人のやる気のなさを感じ取った別の人が困惑し傷ついた。
 一人の素直な告白から、次々に感情が投げ出されていく。この痛みを伴う素直さも、この場が為せることなのだと思う。腹を割って話していた。
 あまりにも正直で、あまりにもあけすけな感情のぶつかりに、息苦しくなってその場から去っていきたいと思う自分がいた。そうか、自分はこういう場面が苦手なんだと思った。一方で、この場をどう収束させていくか、青木さんに期待する自分もいた。
 結論から言うと、青木さんは、ただ聞いていた。聞くワークのときに本人が語っていた通り、ただただじっくり聞き、全文を復唱していた。
 当事者が、気が付くと順番に気持ちを話していく。青木さんは解決に向けた言葉は一切話さなかった。その代わり、当事者がそれを語っていく。それが不思議と心に届いてくる。
 2日目の終わりに、この場面のことを尋ねると、青木さんはこう答えた。「メンバーには力があるんです。それを信じるんです。」何度も聞いてきた言葉だ。それがこれほどまでに実感を持ったことは無かった。深いため息が出た。お腹の下に力が入るような、深いため息だ。

 「自分の声を聞いていると、参加者の声が聞こえなくなる」この言葉にも深くうなずいてしまった。心当たりがたくさんあった。

 結局2日目は、ある程度構成的に「きく・かく・整理する・問う」というファシリテーターの4技術についてワークをしながら学ぶ日だった。その合間合間に思わずメモをしたことがあるのだけれど、今のうちに書き留めておきたいと思ったことは、上に書いたことだった。
 青木さんがなぜファシリテーターになったのか、という話も実に味わい深かった。あのとき、その質問をしてくれた女性に感謝している。
 2日間、作られたものではない本当の場面に出くわした。そこで本物のファシリテーションを目の当たりにした。あの場にいた人に感謝したい。

 相手の話の腰を折る自分を捨てなければならない。最後まで聞くことを習慣にしたい。話の途中で解釈することを頭の回転の速さではなく、稚拙で至らないことだと自覚した。僕は僕を変えたい。