2024年10月13日日曜日

子どもと遊ぶこと

初任のときは分かりやすく若さと体力で子どものなかに飛び込んでいく教員だったので、思い切りいっしょになって体を動かしていた。体育の時間には1人VS36人のリレーをやった。長距離には自信があったのだけれど、子どもはひとり半周で、僕はひとりで18周を走るリレーはぼろ負けした。

休み時間はいつもおにごっこをしたり、サッカーをしたりしていた。

それが初任の自分にできる子どもからの信頼を得るやり方だった。

それを見ていたベテラン教員に「いいわねえ、若くて、体力があって。」と言葉のうえではほめているんだけれど、どこか皮肉めいた口調で言われたことがある。

その理由は分かっていた。いずれ歳をとったら、子どもと遊ぶ体力は無くなってきて、そんなやり方は続けられなくなるからだ。そうなる前に、しっかりと授業の腕をあげたいなと当時そんなことを考えていたことを覚えている。

それから20年の月日が経った。

昨年6年生を受け持ったときには、1人VS18人でドッジボールをした。なんと球は同時に無制限の数でいいという狂ったルールだったので、そりゃもう何発も当てられたのだけれど、こちらも負けじと子ども相手に本気の球を何球も投げ込んだ。

そして今年は3年生を持っている。おかげさまで長い休み時間があると、「アリックオニゴ」と子どもたちが名付けたおにごっこをいつもせがまれる。せがまれるうちが華だろう。正直ずっと走り続ける体力はとうに失っているのだけれど、それでも10分間は本気で子どもたちを追いかけまわす。

今日は必死に子どもたちを追いかけていると、周りで別の遊びをしていた子たちが次々に加わってきて、最終的には30人ほどにふくらんでいた。おには、僕ひとりだ。

捕まえても仲間が助けられるどろけい型のおにごっこなので、捕まえても捕まえても子どもたちは解放され逃げていく。まるで賽の河原の石積みだ。中年が汗をかきながらグラウンドを走る姿は、きっと美しくはないだろう。それでも少し、今でもこうして子どもと思い切り遊ぶ自分が嫌いじゃないのだ。

いつかタイムマシンができたら20年前に戻って初任のころの僕に伝えたい。あなたはあなたのやり方を続けるよ。体力は失われていくけれど、どうやら気力はずっと保たれ続けるよと。

授業はそれなりに腕は磨いたつもりでいるけれど、やっぱりあなたは子どもと遊ぶことで信頼を得ていっているよと。


それから、「子どもの遊びに大人(教員)が入ってばかりいると大人抜きでは遊べなくなるよ」みたいなことも耳にする。

実際に自分もそれを恐れていた。

けれど、20年間たくさんの子と遊んできて分かったことがある。僕が遊び続けたせいで子どもだけで遊べなくなる子たちなんて、いなかった。

僕がいなければいないで、みんな楽しく遊んでいる。

そりゃあ、入った大人が、遊びを管理したり常にジャッジを続けるような勘違いをした参加の仕方をしていれば、子どもたちはその大人の顔色を伺ったり、また自分たちでジャッジができなくなり、常にその大人が必要になるんだろうけれど、それは子どもといっしょに遊んでいるとは言わないでしょう。

遊ぶっていうのは対等じゃなきゃ。僕はいつも体の大きな参加者として、ただただ遊びを楽しんでいる。

とにかく僕が子どもたちと思い切り遊んだ結果、僕がいなきゃ遊べなくなる、そんなことは無かった。


秋の気持ちの良い陽の光のなかで今日は思い切り遊んだ。

それで、こんなことを考えたんだ。



2024年8月19日月曜日

石川晋さんの話を聞く 20240817

立川にNPO授業づくりネットワーク理事長の石川晋さんの話を聞きに行く。

本当なら晋さんと多賀一郎さんとの対談の企画だったのだけれど、台風のせいで多賀一郎さんが東京に来られなくなり、晋さんひとりの会になった。残念ではありつつも、しばらく晋さんの話を聞く機会も無かったので楽しみでもあった。

リスルホール5階の会場にいつも通り時間ぎりぎりに着くと、20人ほどだろうか、参加者の方が集まっていた。

まずは絵本の読み聞かせの時間。1冊目の荒井良二「そのつもり」がすばらしかった。晋さんは参加者のひとりとの思い出話をからめながら、その方がつぶやいた「この本はファシリテーションの本だ」という言葉を引用していた。僕は聞きながら「なってみるの絵本」だなと感じていたが、実際にそうとも表現されていた。ただ僕がぐっと来たのは、その物語だ。騒がしく紛糾する森の動物たちの会議。その様子も決して悪いものではなく、にぎやかで楽しいのだけれど、それを収めたのが牛。ただ草を食べに来た牛。そして牛が去った空き地に静かに風が吹く。この風が吹く描写が染み入った。なんと穏やかで気持ちがいいのだろう。きっとこのとき、思い思いのことをそれぞれ主張していた動物たちも、言葉に出さないけれど同じ気持ちになったに違いない。言葉にならない共感。僕はそういう瞬間が好きなのだ。「そのつもり」はそれを想像させる絵本だった。思わずポチリ。

絵本を読みながら、1冊ずつの解説を晋さんは丁寧に行う。そこには授業を含めたデザインの話があり、紡がれた文章の工夫と読み方のコツがあり、循環というアートについての言及があり、絵本を通して様々な知的な刺激があった。(ただこういうふうに整理することを晋さん本人は望んでいなかったようにも思う。晋さんは研修を受けた教員が新しく得た知識をこれみよがしに発揮しようとすることを「研修ハイ」という言葉で揶揄していた。まさにこの文章を打っている今、自分がそれに陥っているようにも思う。)

上條晴夫さんの実践を引き合いに、「学校の先生の仕事はどれだけ対象を見られるか。子どもたちが対象を見る目をどれだけ育てられるか。」それに続く現在の教員に対してのクリティカルな指摘。こういう言葉に出会えるから、自分はこういう場に来るのだろう。

後半の晋さんの一問一答は講座の建付けが見事だった。あらかじめ晋さんは自分がSNSでつぶやいたことを印刷し、それをひとつずつ封筒にしまっていた。それぞれの封筒がかわいらしいものだった。参加者はその封筒を2つずつランダムに手に取り、自分が手にしたつぶやきについて、任意で晋さんに投げかけ質問していく。

晋さんは相変わらず飄々としていたけれど、これ、準備に時間がかかっただろうなと思う。でも、きっとにやにやしながら準備をしたのだろうなとも思う。それを思うと実践者としての晋さんにぐっと触れた気がした。身近に思った。とても丁寧な準備だけれど、それぞれのつぶやきは何かの裏紙に印刷されていて、そこはあえて粗さを見せたのだろうなとも思った。かわいらしい便せんに粗い裏紙。ロマンチックでシャイな人なんだろうな。

一問一答の内容は、参加者だけが味わえばいいと思う。含蓄のある時間だった。特に「まいごのかぎ」についての言及は共感するところが多かった。「ヤブガラシ」の意味に気づけない僕は、やはりただただ子どもの気持ちに添い遂げなきゃいけないんだなと思う。

自分のところに来たつぶやきは、あまりにパーソナルなものだったので、質問しづらかった。でも、ずっと質問をぶつけてみたかったものでもあった。それをぶつければ、きっといつも飄々としている晋さんの内面が見えるだろうから。でも、それをするのはすごくすごく非礼なことのようにも思えて躊躇していた。意を決して最後にぶつけると、それはとても大切なものを見せてもらったようなそんな時間になった。

傷つけると分かっていても、それでも進まないといけない。それはそれぞれの現場、立場で直面することのように思う。自分にそういう覚悟があるのだろうか。

ああ、いけない。研修ハイになっているので、少し冷まそうと思う。

ある自治体の学校の様子を見に行ったときの「あの先生、来年はいないね」と、きらびやかな陰で脱落していく教員のエピソードを話すときの晋さんはとてもつらそうだった。「先生が幸せじゃなくて子どもが幸せになれるんですか」そう絞り出すように言う。言葉自体はよく耳にする気がする。でもこんなにそれが強く伝わってくることはない。この時間に何度も冗談のように口にしていた研修ハイ、これは決して冗談じゃないんだろうな。僕はずっと良い先生になりたいと思っている。良い先生とは何か、と自分に問い続けながら、自分なりに学び続け、それなりに実践にうつしていると自負している。その自負が、誰かを傷つけていないか、教員室を居づらい場所にしているのではないか。良さを追求していくことや向上心を持ち続けていくこと、それは決して否定されるものではないと考える。でも、それが本当に学校を、自分が生きる場所を良くしていっているのかを考えなきゃいけないなと思う。何かを圧迫しながらではなく、淡々と向上していかなくてはならない。研修ローでいる必要が、本当にあるんだと思う。

足を運んで本当に良かった。


2024年2月27日火曜日

ハノイの塔

今日の算数はハノイの塔を自作して問題に挑む時間。

ハノイの塔とは、古典的な数学パズル。
ルールに従って、小さな順に重ねられた円盤を、別のところに同じ順番で重ね直すという、とてもシンプルなパズル。https://ja.wikipedia.org/.../%E3%83%8F%E3%83%8E%E3%82%A4...
自作の方法は、画用紙を切り抜き、大きさの異なる三角錐を5個作る方法。円盤でなく三角錐というところが肝だ。あっきー(秋山真一郎さん)が紹介してくれた方法。
ほんの10分ほどで、2人ペアに1つ、5段の即席ハノイの塔が完成する。
子どもたちにルールの説明として2段の最短手順を説明する。これは3手順でできる。
僕から課したのは、まずは3段の最短手順を求めること。
次に5段の最短手順を求めることだ。
ロッカールームには1から50までの数字が書かれた付箋を用意した。正しい答えが書かれた付箋をめくると、そこには「3段正解」「5段正解」と書かれている。
2人一組で問題に挑む。
きっと子どもたちは楽しんで取り組むだろうと思っていたけれど、想像以上にみんな真剣になって取り組んでいた。
教室の隣同士のペアで取り組む。たまに喧嘩をしている2人も、真剣に話し合いながら三角錐を移動していて、それがうれしい。
逆にふだんはあまり話さない2人が真剣に顔を寄せ合って相談しながら三角錐を移動している姿は、もっとうれしくなった。
10手順もかからない3段は、ほとんどのペアがすぐに答えにたどり着いた。
付箋をめくって、喜ぶけれど、3段に挑んだことで5段の難しさになんとなく気づいているのか、喜びは薄い。
そこから5段が、難しい。
20分たっても答えにたどり着くペアはいなかった。
そこで時間切れ。授業時間に終わりが来てしまった。
それでも休み時間になっても黙々と取り組む子どもたちの姿があった。
この雰囲気がもったいなく、次の時間も算数を続けることにした。
2時間目になると、少しずつロッカールームから歓喜の声が聞こえ始めた。
5段の答えにたどりつくペアが出てきたのだ。
5段の答えにたどり着いたペアから「4段の答えはないのー」という声が聞こえる。そこで4段の答えも付け足す。
それに自作の6段目を作って挑戦するペアも出てきた。
なんとも美しいと思った。
しばらくして、みきさんが言った。
「これ計算で求められるじゃん。」
僕は驚いた。たしかに計算で求められるけれど、それに気づくとは思っていなかったからだ。
通路をはさんで隣のともが答える。
「えっ、ほんとに!」
「だってさ、2段が3手順で、3段が…手順、4段が…手順で、5段が…手順てことはさ、これは前の手順に…をかけて1を足しているんじゃない?」
腰が抜けそうになった。その通りだ。
2人のやりとりは、小さな声で、気づいている子は数人しかいなかった。
しばらく待っていると5段の最短手順にほとんどのペアがたどり着いていた。
そこで、「3段、5段の最短手順は何回か」それだけを書いていた黒板に問いを付け足す。
「6段だと、…手順です。さて、最短手順を計算で求めるなら、どんな式になるだろう」
すると、次に次に子どもたちがやってきて、自分なりの言葉で式を説明していく。
そのうちのひとりに、ゆうくんがいた。
5年生のはじめ、計算が苦手で苦労していた子だ。
「あのさ、あのさ、」と言いながら、必死に説明をする。
「それじゃあ、伝わらないなあ」
いじわるな担任だ。
「ちょっと待って、ちょっと待って」
ゆうくんは何かに気づいているようだ。
いつまでも待つよ。そんな気になる。
「前の手順に…をかけて、1を足す!」
ゆうくんはそれにたどり着いた。
そのうち、(…を段数分かけて、マイナス1)という式をたてた子が3人も現れた。
おお、…ⁿ-1を彼らなりの言い方で表している。なんと美しい。
僕のやる算数の授業は、いつも演習ばかりで、問題演習と解説の反復のなかで、解法を沁みこませていうような、そんな授業が多かった。
こんなふうな算数の時間は僕には作れないと思っていたけれど、今日はすごく美しい算数の時間で、なんともなんともうれしかった。
考える子どもたちの姿は美しかった。
(子どもたちは仮名です)