2015年6月21日日曜日

呼び名問題から考える「学校」という場

先日、「みんなの学校」という映画を大学院のみんなで見ました。
http://minna-movie.com/
誰もが同じ教室で学び続けることのできる学校を目指し、それを体現している小学校の様子を映したドキュメンタリー映画でした。
私立小学校という、試験で選別された子のみを受け持つ自分にとっては、誰もを成長させるという教育の理想へ、言い訳をせずに向かっていく校長先生の姿は、直視するのが心痛い部分がありました。
後ろめたさを感じてしまうのです。
大学院で学び始めて3カ月近くなりましたが、この後ろめたさはところどころで感じることがあります。
私立で働くことへのしっかりとした整理を、自分の中でしないといけないと考えています。

が、そのことは、もう少し時間をかけて行おうと思います。少しずつ整理できてきた気はしています。

映画の後の感想交換会で、映画の内容と直接は関係ありませんが、気になる質問がありました。

それが、「教師が子どもをどう呼ぶか」という問題提起です。
映画の中で、その学校の先生たちは、敬称をつけることなく、子どもたちを愛称や下の名前で呼んでいました。
その是非を問う感想でした。
感想を述べた方は、「子どもを呼び捨てするなどもってのほか、きちんと「~さん」と呼ぶべきだ。」と主張しました。

この「教師が子どもをどう呼ぶか」という「呼び名問題」は結構いろいろな場面で耳にする問題です。
実際に自分の学校でも、それが問題になります。
今のところ共通ルールは設けないことになっていますが、どちらかというと、少なくとも授業中は「~くん」「~さん」という敬称を付けるべしという意見が優勢です。
さらには、男女で敬称を分けるのは、ジェンダー的見地からいかんということで、「~さん」に統一すべしという意見もあります。(社会に出れば、基本的な敬称が「~さん」であるということも理由の一つでしょう。)
今の学校現場では、この「~さん」という呼び名に統一する学校、学級が多いと思われます。

敬称を付けるか付けないか。
敬称は「~くん」「~さん」か、「~さん」に統一するのか。
授業中とそれ以外で区別するのかしないのか。
教師と子ども、子ども同士の場合はどうなのか。

こうしてみると、いろいろなキリトリ方のできる問題です。

そして実は、突き詰めていくと、教育観の根底に関わっていると言える大きな問題であると思います。

さて、では僕はどう子どもを呼んでいるか。

僕は、子どもをニックネームや下の名前で呼ぶことが多いです。
あまり最近の学校ではよくないとされていますが、今のところそうしています。

新しいクラスを受け持つことになったときに、「自分は人にどう呼ばれたいか」を発表させ、基本的にはその呼び名を使うようにしています。
もちろん、その時に、「くん」や「さん」を付けてほしいと言われればそうしますし、他の子にもそう呼ぶように話していきます。
ただ、ほとんどの子どもがニックネームや下の名前をその場で言うことが多く、結果、僕は子どもたちをそう呼ぶことになります。

これを話すと、驚かれ、時に怒られることも多いのですが、僕は授業中もその呼び名を使って呼びます。
そして、自分自身も、どの場面でも、子どもからニックネームで呼ばれています。「~先生」とはほとんど呼ばれません。


「~さん」と呼ぶことによって、教員が子どもたちの人権を尊重することにつながる。
子どもたち同士も「~さん」をつけて呼び合うことによって、お互いを尊重するようになる。
そんな人権尊重の見地からの意義。
社会に出たら「~さん」が当たり前なのだから、子どものころからその習慣をつけさせるのが良いという社会への準備としての意義。
授業はけじめが大切。規律をしっかりすることで、効果の高い授業ができるという意義。

以上のような敬称をつけて子どもを呼ぶことの意義は、分からなくもありません。
また、もっと他にも意義があるのでしょう。
でも、僕はそうしていません。
それは、学びの場である教室を、生活の場に近づけていきたいという思いがあるからです。


僕は、学びは、日常のつながりの中でこそ意味を持つものだと考えています。
授業は、切り取られた特別な時間ではなく、日々の生活の延長にあることで効果が増すと思うのです。

普段の生活や遊びの場面での子どもたちの姿を想像してください。
自由な発想が次々に出ていませんでしたか。
そして、周りの意見を聞いて、時にぶつかりながら、発想をさらに広げていませんか。

毎日の授業も、そんな姿で受けてほしい。そう思いました。

教室に、学びの場に、生活や遊びの時の子どもを持ち込みたい。
自由な発想で学び合う時間を作りたい。
そのためには、どうしたらいいだろう。
子どもたち同士がいつも呼び合っている呼び名を、そのまま授業でも使うこと、それがひとつの方法だと思いました。

敬称をつけて子どもを呼ぶ意義より、生活の場で使われている呼び名を使うことのほうが、僕には大切に思えたのです。
そして、僕自身もニックネームで呼ばれることで、子どもたちの学びを合いの一員によりなれると考えたのです。

もちろん、他人に敬意をはらうこと、場面によっては敬称をつける必要があることは身につけてほしいので教えます。
校外学習などは、その恰好の場になります。
一方で、形から入る敬意より、生活の中で自然と生まれる敬意のほうが、本質的だという思いもあります。

以上のような、教室を生活の場に近づけたいという理由で、僕は子どもたちをニックネームで呼び、自らもニックネームで呼ばれています。
また、同じ理由で授業の始めや終わりのあいさつもしません。
同僚や保護者から疑問を呈されることもありますが、今のところはなんとか納得していただいていると思っています。

うまくまとまりませんが、「呼び名問題」、実は教育観とつながる問題だと改めて感じました。さらに考えを深めていきたいと思います。

案外、来年あたり呼び名を変えているかもしれません。











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