2016年7月2日土曜日

強い声を出したことで、子どもを正しい方向に導けたと思った日の話

4年生授業では、ごみの学習終わりにさしかかっていた。
まとめとして新聞づくりをやろうと考えていたので、その前に、子どもたちにこれまで学んできたことを振り返させることにした。
今回は自由探究と名付けたごみに関することを個々人で自由に調べる時間を大きくとった。
(この自由探究については、来月にでもまとめたい。)
そうすると、教員が一方的に教えるのではないので、ひとりひとり学んだことが変わってくる。
大きめのホワイトボードを4人に1つ用意して、それぞれが学んだことを出し合い、リストにさせることにした。
そこで会話が生まれれば、それぞれの学びが共有されると思ったからだ。

やり始めると、うまくいくグループとそうでないグループが現れる。
学習の振り返りを子どもたちに任せるのは初めてのことだったので、戸惑うことは想定していたので、あわてることはなかった。
ひとりひとりが自由探究を深められていたのは確認しているので、共有がうまくいかなくても、まとめにはうつれる。
むしろ今回うまくいかなくても、それを次の機会の糧にできればいいと思っていた。

とは言うものの、うまくいかないグループを中心に見て回りながら、ひとことふたこと声はかけていった。

ある班の男の子、ススは、勝ち気な女の子が中心となって進めているのが気に食わないのか、着々とリストが書き足されていくのを横目に、ホワイトボードの片隅に何やら落書きをしていた。
「スス、この前調べてたあのこと、すごくうまくまとめられていたよ。それをリストに付け足してごらんよ。」
と声をかける。
彼の提出物を認める良い活動への促し方を選んだつもりだ。(実際に良いものを提出していた。)
顔をあげるスス。うなずいている。
安心して、別のグループのところに向かった。
5分ほどして、ススのグループに戻る。
すると彼は落書きを続けていた。しかも、今度はホワイトボードの片隅ではなく、余白いっぱい、ボードの半分くらいを使った大きな大きなまき○その絵だ。
その下品な絵が、他の3人が書いたリストを浸食しかけていた。
「スス!」
思わずドスの利いた大きな声を出してしまった。
普段は出さない声の出し方をした。ススの背中が伸びる。気まずそうに、少し怯えながらこっちを見る。
小さな声で「ごめんなさい。」と言った。「ちゃんとやりなね。」いつもの穏やかな声でそう伝えた。

やってしまったなあと思った。子どもたちの自主性を大切にするのに、教員の大きな声は彼らを縛るものになりかねない。
これまでの授業では極力抑えてきたつもりだった。
でも、かっとなって言ってしまった。でも、あの場でどうすればよかったのだろう。

授業の終わりに、意外なことにススがホワイトボードを持ってきた。
いたずら書きは無く、きちんと学んだことがリスト化されて並んでいる。
「おっ、うまく作れたね。」
声をかけると、ススははにかんだ笑みを浮かべた。

『ああ、あそこで大きな声を出してしまったけど、結果として正しかったんだな。よかった。』
と思った。
自分では出すまいと思っていた大きな声だけれど、そこでああいう手段をとったことで、今日の学習がススにとっていいものになったようだ。ススにとっても、メンバーにとっても良かったんじゃないか。そう思って安心した。
やっぱり大きな声を出さざるをえない場合は存在するんだろう。今日はその場合だったんだ。



でも、頭の斜め後ろくらいから声がする。
「本当にそうなのか。」
自分を斜め上から見ている自分からの声だった。
今年は日記をつけている。日記をつけるようになると、日常の中で自分を少し離れたところから見つめる自分が現れるようになった。
「本当に、大きな声を、ドスの利いた声を出すことは、手段としていいことなのか。成功体験として収めていいことなのか。」
そいつがさらに問い詰めてくる。
「だから、ススくんは、それでうまくいっただろ。」
振り払うように答える。
「では、周りの子たちはどう思っただろう。クラスの子たちはどう思っただろう。」
「クラスの子たちは…怯えた子がいるかもしれない…。」
「その子が怯える必要はあったの?」
「悪いことをしていた子は叱られるって、それで分かったかもしれないじゃないか。」
「悪いことをしたら叱られるってことは、そんなやり方じゃないと伝えられないことなの?
そもそも何もしていない子を怯えさせるって、それは悪いことじゃないの?
まき○その絵を描くことは、もちろん褒められることじゃないけれど、中年の体格のいいおっさんが、ドスの利いた声を教室に響かせることは許されることなの?」
僕が僕を責めるような質問をしてくる。
「うう…。もしかしたら、…よくなかった…かもしれない…。」

このあたりから、斜め後ろから質問を投げかけてきた僕が僕の中に入ってくる。
自問自答は続く。
何が悪かったのだろう。ドスの利いた声は、脅しだ。(実際にドスの語源は脅しからきているそうだ。)
脅しとは暴力性を含むだろう。
悪い行動に対し、僕は力をちらつかせた。
結果として悪い行動はおさまった。が、それはもしかしたら、悪い行動に対しては、暴力にも似た力をちらつかせてもいいという、そういうメッセージを子どもたちに送ったのではないだろうか。
そこまで考えが進むと、今日の自分の行動に強い後悔の念が襲ってきた。

今日の行動はどうしたらやり直せるだろうか。
子どもたちに今日考えたことを正直に伝えてみようか。
また同じような場面に出くわしたときは、今日の後悔を思い出して、別の方法をとりたいと思う。
僕の行動は、自覚的であれ無自覚であれ、すべて子どもたちへのメッセージとなる。
この日、それを改めて意識した。



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