2015年8月31日月曜日

私立学校に勤めていることについて

大学4年のとき、いわゆるゆとり教育への批判キャンペーンが大きく起こっていた。
それに対し、教育行政も揺り戻しと呼ばれる方針をとろうとしていた。
自分はいわゆるゆとり教育とされ批判にさらされたものの1つの総合学習について、非常に有意義なものと考えていたので、この動きに反感を持っていた。
職場として私立学校を選んだことの大きな理由は、その時の気持ちがある。
その時は、教育は普遍的な営みであり、その時の世論の流れで右往左往するものではないと考えていた。(今は多少の右往左往をしながら、普遍的な営みを探求していくものだと考えている。)子どもと日々面している教員ではなく、官僚が教育の大きな流れを決めていくことには、納得がいかなかった。
自分の思う良い教育をやりたい。それが出来るのは私学なのではないかと考え、公立学校の教員になるための教員採用試験は受けずに、私学を就職先に選んだ。

就職した学校は、教員の自主性が尊重され、自由な教育ができる環境があった。
東京都ではあるが、多摩の自然豊かな環境の中、詰め込まずにのびのびと子どもたちを育てていく学校の姿勢は、自らの教育信念とも重なり、思い切って仕事に打ち込むことができたし、その気持ちは13年たった今も変わらない。

ただ、いつでも心にひっかかっていることがある。
それは、幼児に対し選抜をすること、そしてそれに伴い、受験のために幼児期を費やさせてしまうこと、さらに、経済的、その他条件に恵まれた子どもたちしか相手にしていないことだ。

選抜試験を設け、わずか5才の子に対し、当落させるという行為は、果たして教育的であろうか。
二度と帰ってはこない幼児期のほとんどを、試験に通るために、お教室という塾通いに費やしている子どもたちを、私たちは作っている。

「お教室に通っていない子も受かるような試験を」を合言葉に、知識を問うような試験は排除し、生活経験や協調性などを重視する試験をやっているつもりだ。
それでも、ふたを開ければ、合格する子の多くはお教室出身者だ。
(受験者におけるお教室出身者の割合がそもそも多いのだろう。)

私は、幼児に対し、選抜試験をやることや、またその準備のために日々競争にさらされるようなめに合わせることへ大きな抵抗がある。

そういう自己矛盾をずっと抱えている。

また、公立に比べ学費及び必要な費用が非常に高く、たとえ教育理念に賛同したとしても、経済的理由で通うことを断念している家庭も多いだろう。
選抜試験をやることによって、排除されてしまう子どもたちがいる。
恵まれた家庭の、さらにその一部の子どもだけを相手にしながら、私は教壇に立って平等を説く。
そんな時胸が痛む。



私学を職場として選び、楽しみながら働き、それでもひっかかっていることがそのようなことだ。
悩ましさゆえに、職場を替えることも考えたことがある。
でも、私が公立に移ったところで、私立学校が無くなるわけではなく、上記のようなことが無くなるわけでもない。
私立学校がそれぞれ掲げる独自の教育理念に賛同する人たちは必ずいるし(私学が支持される理由はそれだけではないが)、教育に幅があることも良いことだろう。
何より、自分の思ったことを実現できる環境は、他の何にも替えられないほど、やりがいがある。


自分のひっかかりに対し、今現在自分を納得させようとしているのは、次のような考えだ。

まず一つは、入学した後はその時にしか得られない経験をさせること。
学校の中で、自由な時間を多く設定し、それが豊かものになるよう、自然環境に代表される学校環境を整えていく。
教室内の交わりはもちろん、教室を越え、異学年の交わりを増やしていきたい。
そのための方策もすすめている。

もう一つ。多様性を感じさせるような経験をさせること。子どもたちの日常は、良くも悪くもある程度の同一性が保たれてしまう。(子どもたち目線では、様々な子どもがいると感じているだろうが。)
だからこそ、もっと多様な人がいることを、意識して教え、実感させていきたいと思う。
様々な学校や施設、地域との交流がカギになると考える。

そして、平等よりも不平等を説いていきたいと思う。現実にある理不尽な不平等を説いていくことで、社会貢献できるような子どもたちを育てていきたい。
理不尽な格差を固定したり、広げるのではなく、格差を是正していけるような、そういうリーダーを育てたい。

そんなことを意識し、やっていきたい。

自分のひっかかりに対し、絶対の答えはあるのだろうか。
こうして言葉にしてみれば、もっとすっきりすると思っていたけど、逆にまた悩ましくなってしまった。
導き出した答えも、すごく無理やりなこじつけの気もする。
ただ、迷いながらも向かい合っていきたいと思う。

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