2016年1月31日日曜日

個の自由と公共性 悩み深いこと

 中高6年一貫の男子校で育った。校則は無かった。私服登校も許されている一方で、標準服という学ランもあり、校内には私服と学ランの生徒が入り混じっていた。髪型も様々で、髪の色も茶色もいれば金色もいて、当時流行っていた一部を金にするメッシュなんていうやつもいた。(実は明文化されていないが、生徒に代々伝わっている校則というものがあった。それは「校内での鉄下駄禁止」「教室への出前禁止」「校内での賭け麻雀禁止」の3つだった。ふざけている。そもそも3つ目は、校則以前に法律で禁止されているではないか。)
「自由」が校是の学校だった。
 ただ、その自由に関して、入学の時に、先生からも、先輩からも口を酸っぱくして伝えられたことがある。それは、自由には責任があること、つまり、自由とは他人に迷惑をかけないことが前提であるということだ。
学校に入った当初は、先輩や先生の言う自由が誇らしかった。実際に人一倍自由を謳歌した。しかし、段々と違和感を抱えるようになっていった。他人に迷惑をかけない自由は、本当に自由と言えるのか、ということを考えるようになった。
(自由に振る舞えば、ある程度の、時には大きな迷惑が周囲にかかってしまうのではないか。そもそも何を迷惑と感じるかは、人それぞれであり、それは迷惑をかける側が規定できることではないのではないか。どこまでが迷惑でなくて、どこからは迷惑だ、なんて決めること自体が、感情の自由が束縛される気がしていやになっちまう…)
なんてことを、学校の帰り道でぐじぐじと考えていた。
どうしても自分には、「他人に迷惑をかけない」ことと「自由」は共存できないように感じられていた。そんな自由は、見せかけの骨抜きの、つまらない自由に思えた。

個人の自由と公共性の共存というのは、本当に難しい問題だと思う。思春期に抱えた違和感は今もぬぐえないまま、小学校の教員をしている。

教室を一つの社会としてみると、この問題は切実だ。個の尊重と集団の維持のバランスというのはいつも自分の頭を悩ませる。内面の信念に任せるのであれば、個の尊重にぐっと重きを置きたいと思う。それは教室内に多様性を生み出していく。一人の個人としてそれを受け止める器があるだろうか。いつも自問する。そして、教室にその多様性を受け止められるだけの寛容さは備わっているだろうか。いつも気にしている。
一方通行ではなく、互いに少しずつの迷惑をかけあいながらも、それでも許しあい、みなが自由を感じられる。さらに大きな自由を実現させるために、時に協同していく。そんなクラスを目指してきたように思う。そのためには相互の理解が必要で、そして寛容さが必要だ。それを大切にして子どもたちと接してきたし、説いてきたとも思う。それでも「もっと周りの迷惑を考えろ!」なんて言葉で子どもたちを叱ってしまうこともある。そんな時は自己矛盾に陥ったようで、沈んでしまう。

個人の自由と公共性の共存、これからも悩み続けて模索していくのだと思う。実はそれこそが、子どもたちが教室で学ぶ意味であるのではないかとも感じている。

 
 まとまらないけど、今日はここまで。

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