2018年3月3日土曜日

バングラデシュについて① 初めてのバングラデシュ

フェイスブックのプロフィール写真はバングラデシュという国の東端、チッタゴン丘陵地帯の小さな小さな村にあるプルナジョティという寺子屋で撮った写真だ。
大切な大切な友人たちと写っている。


バングラデシュは僕が愛してやまない国だ。
初めて行った2002年から10年間、毎年のように訪れていた。
バングラデシュと自分について、いつかしっかりと書きたいと思っていた。
書き始めたら、まったく終わりが見えなくなった。
自分の記録として書いておきたい。
何回かに分けて書けたらいいんだけど。

大学3年生の秋だったと思う。
大学の小さな広場にある藤棚のゴミ箱に貼られていたポスターがたまたま目に入った。
「バングラデシュ ワークキャンプ 参加者募集」
いつもだったら気にも留めなかっただろう。
でも、その時は違った。
友人の井桁に言われた言葉が頭から離れなかったのだ。
彼とはその当時、たまに夜中に会って話し込むことがあった。
将来の目標の話になったときに僕はこう答えた。
「小学校教員になりたい。それで、自分のクラスの子どもたちを幸せにしたい。」
真っ当な答えだったと思う。
そこに彼はかみついてきた。
「お前、それでいいの。自分の周りだけが幸せならそれでいいの?周り以外は幸せじゃなくていいの?お前はもっと広い世界を幸せにしようとは思わないの?」
彼特有の、挑みかかってくるようなあの口調でそれを言われた。
何か言い返した気がするが、彼の熱量に押され、黙ってしまった。
そして、犬養道子さんの書いた「人間の大地」という本をすすめられた。
本屋で探してみたが、すでに絶版だった。
あきらめようとも思ったが、井桁のあの情熱のもとを知りたくて、何とか調べて、友人の大学の図書館にあることが分かり、友人に借りてもらった。
それは先進国と途上国の南北問題について書かれた本だった。
彼のあの熱弁と相まって、そこに書かれていたことに大きなショックを受けた。
そんなタイミングで大学に貼られたポスターを目にしたのだから、妙に気になってしまった。

大学2年の時の挫折から立ち直れず、いつまでもふらふらしている自分に、誰よりも自分自身が嫌気がさしているころだった。
何か変えたいと思っていたからだろう。気が付くと僕はバングラデシュにいた。
2002年、大学3年生の春休みだった。

大学生が企画するボランティアのワークキャンプ。
その一員としてバングラデシュのダッカに降り立ったのだ。
飛行機を出る、空港内にも関わらず、すでに独特のスパイシーな匂いがただよっていた。
空港のゲートを出ると、正面の金網に数えきれない人が張り付いていた。
数えきれないほどの人が張り付いているのだ。
それは異様な風景だった。
その視線が一気にこちらに向かってくる。
迎えの人にしては数も多いし、ウェルカムな雰囲気は一切ない。
目が血走っている人も見える。
(後で分かったが、これはカートという覚醒作用のある噛みタバコの影響らしい)
叫んでいる人もいる。
怖い。が、同じ参加者には女の子もいる手前、怖がっているそぶりは見せられなかった。
「これは外国人を見に来ている人だよ」
バングラデシュに滞在経験のある学生が教えてくれた。
強烈な初めの一歩だった。

 
ダッカの喧騒

16年も前のことなのに、ワークキャンプのことはずいぶん覚えている。
首都のダッカから北に車で5~6時間、カパシアのアラルバジャールの隣、カリヤブ村に、学生キャンプの一団は到着した。
途中、舗装されていない穴だらけの土の道路でバスがバウンドしたり、道の真ん中に牛が闊歩していたり、川を渡るためにバスごと渡り船に乗ったり、驚きの連続だったが、なんとか目的地についた。
地元の名士、バキの家にホームステイする。

僕たちの目的はこの村にトイレを掘ることだった。
直径1m、身長ほどの深さの穴をほり、粘土を固めて作った丸い枠をいくつか埋めていく。
最後に蓋をはめる。蓋の真ん中には見慣れた和式便所が埋め込まれている。
とても簡単なトイレだ。
なぜそんなことを僕たちがやったのか。
実はこの村にはトイレがほとんど無かった。
というよりも排泄をトイレで行うという考えがない人が多かった。
カリヤブ村はほとんど開発がされていない村で、畑や田んぼの他にはうっそうと木々が生えていた。
人目につかないところは山ほどあり、人々はそこで用を足せばよかったからだ。
しかし、その方法には、やはり問題があった。
人口が増えていくなかで、衛生面の問題や、病気、特に女性の排泄に関わるものが増えていったのだ。
注目を浴びる日本人の一団がトイレを掘ることで、その必要性を啓蒙することが目的だった。

午前中はトイレを掘りにいく。
電気、ガス、水道のない何でもない村に、日本人の団体の存在は飛びぬけて異質だった。
村中の人がその様子を見に来る。
その視線が気になる参加者もいたが、目立ちたがり屋の僕は、うれしくなって人一倍張り切ってやっていた。
その様子を村の人が楽しそうにやじる。
言葉は分からないが、おそらくヤジだ。
「笑ってないで手伝ってよ!」
手に持ったくわを渡そうとすると、大げさに逃げていって、その姿に周りの人が笑う。
振り返れば、啓蒙という目的はまったく果たせていなかったが、言葉が通じない村の人たちとのやりとりは楽しかった。

バキの家には大きな中庭があって、日本人見たさに何人もの人がやってきた。
バキは、家に入ってきた人々に気がつくと大きな声で追い払うのだけれど、バキの知り合いや、2人いた息子の友達は滞在を許されていた。
特に子どもたちとは仲良くなった。
日本でもしていたように、高い高いをしたり、追いかけっこをしたり、すぐに打ち解けることができた。

バキの次男と友達

歩いて20分ほどの場所にはアラルバジャールという市場があって、いくつかの店が並んでいた。
布屋で買った布を仕立て屋に持っていき、庶民の服である男性用巻きスカートのルンギを仕立ててもらう。
仕立ててもらうと言っても一枚の布の端と端をミシンで縫い合わせ、筒状にしただけのシンプルなものだ。
この筒の中に身体を通し、おへその下あたりでうまく結ぶと、それで出来上がりだ。
ただ、ルンギの結び方にはちょっとしたコツがあって、うまくやらないとずり落ちてしまう。
何度か練習したら、うまく履けるようになった。ベンガル人にもほめられた。
ポケットのないルンギでも、結び目の中にお金をうまく隠せるようになった。
うれしくて毎日ルンギを履いていた。
ルンギを履いたことで、いっそう村の人や子どもとの距離が近くなった。

僕らの存在は村では有名だったから、みんなが見に来る。
特に若い男性や子どもは積極的で、すぐに話しかけ、肩を組み、ちょっかいを出してくる。
すぐはしゃいでしまう僕は、彼らの出してくるちょっかいに2倍で返す。

夜は真っ暗闇の中、ランプをつけて過ごす。
土間のような土の床の部屋に、男子がみんな寝袋で横になる。
参加者は同じ大学生。
今みたいにスマホがあるわけではないし、電気が通ってないのでテレビももちろん無い。
自然と語り合う夜となる。
と言ったらかっこいいけれど、すごくくだらない話をしていた気がする。

キャンプのリーダーだったふじじゅんと話したことが忘れられない。
昼間に市場まで出た帰り、なぜか彼と河原に座ってぼんやり話していた。
「あのさ、ここに来るまで、恵まれない途上国の人って、もっとつらい表情で暗い感じかと思っていた。でもそうじゃなかった。」と話し出す。
「俺もそうだよ。そんなふうに初めは思ってた。でも、みんなすごく明るいし、前向き。実は俺らよりひょっとしたら日々を楽しんでんじゃないかって思えるくらい。こっちがエネルギーをもらう感じ。」とふじじゅん。
「そうなんだよね。自分の持っていたイメージが申し訳ないなって思った。」
「俺らはどうしても、この国や人々の貧しさに注目がいっちゃって、すごく彼らを哀れに考えちゃうんだけど、彼らにも彼らの日々の楽しみがあるんだよね。当たり前のことなのに、それが分かってなかった。」
「みんな優しい。助け合っている。助けよう、良いことしてやろうって思いでここにけれど、何だかこっちがいろんなことを教えてもらっている感じ。」
「そうだよね。ゆうすけの言う通り。ただ、日本と経済の格差はまぎれもなくある。圧倒的な貧しさは存在している。こうしてこんなにも素敵な思いをさせてもらっているから、彼らの良いところを損なわないようにしながら、それでもこの格差をどうにかしていきたいって思うんだ。」

16年たって、20歳そこそこの青年2人の青臭いやり取りを文字に起こすことは、なんとも気恥ずかしさがある。
でも、お互いの顔を見ずに、横並びの体育座りで、川を眺めながらしたこの会話が、僕には今も忘れられない。

夜は真っ暗だから早く床につく。
すると早朝に目が覚める。
ニワトリの鳴き声や、鳥のさえずり、そしてコーランの響きに起こされる。
早朝はすずしいから、散歩のチャンスだ。
他にすることもないので、朝もやのなかを散歩に出かける。
市場とは逆の方向へ歩いていく。
村はまどろみのなかだから、まだ歩いている人は少ない。
いつもはちょっと怖い野良犬も、どこかで寝ているから大丈夫。
道の両側には、田んぼがあって、その向こうにもやのかかった緑の木々が見える。
道沿いに小さなドカン(茶屋)が見えてくる。
2タカ(4円弱)をはらうと、小さな白いコップに銀色のヤカンからチャイが注がれる。
そこへコンデンスミルクをさじですくって入れ、乱暴にかきまぜたら出来上がり。
このあまったるいチャイが、とてもおいしく感じる。少しずつちびりちびりとすすっていると、この国の人になった気がする。
バングラデシュの国旗は緑地の日の丸。それが分かるような緑に囲まれた景色だ。
散歩から帰ると、バキの奥さんのバビさんが朝食を作ってくれている。
チャパティという円形のふくらんでいないナンのようなものが朝食だ。
これにカレーをつけたり、卵焼きを添えて食べる。
このチャパティがもちもちしていておいしい。
毎回出されるダールという薄いカレー味の豆スープはあまり好みではなかったけれど、その他のカレーはどれもおいしかった。

バキ一家とキャンプから2年後の再会

キャンプではトイレづくりの他にも、書ききれないほどいろいろなことがあった。
3週間のキャンプが終わるころには、僕はバングラデシュという国が大好きになっていた。

あまりに好きになったせいで、その翌年、大学4年生の春休みに、今度はひとりでバングラデシュに旅行に行った。
当時はまだ地球の歩き方が出ていなかった国だ。
初の海外一人旅がバングラデシュという人もめずらしいのではないか。
この旅行もハプニングの連続で楽しかった。
夜中の2時にバスから降ろされ、暗闇の中に放り出されたときにはどうしようかと思った。

ただ、この旅行が僕とバングラデシュとの最後になると思っていた。
しかし、そうならなかった。
僕はその後、もっともっとバングラデシュとの関わりを深めることになった。
それがチッタゴン丘陵地帯に住むジュマとの出会いだった。
大切な大切な友人とたくさん出会うことになった。

そのことを近いうちにきちんと書こうと思う。

キャンプを主催したイチさんと。
キャンプから2年後のナラゴンジバスターミナルにて。

0 件のコメント:

コメントを投稿