2018年3月5日月曜日

バングラデシュ② チッタゴンヒル子ども基金

チッタゴンヒル子ども基金(2003年)

大学を出てすぐに夢だった小学校教員になることができた。
ずっと目標にしていたから、実際にクラスを持ち、毎日子どもたちと接することが楽しくて楽しくてたまらなかった。
楽しいことばかりの仕事じゃなかったけれど、それも含めて日々が充実していた。
毎日7時過ぎには出勤して、職場が閉まる22時近くまで働く。おまけに休日も出勤していた。
特にそれをつらいとは思わなかった。湧き出てくるアイデアが実現した時の子どもたちの表情を思い浮かべると、時間を忘れていくらでも働くことができた。

そんな勢いで夏休みに入った。さすがに夏休みは7時から22時まで働き続けるような仕事はない。急に時間ができて、ふと考え込んだ。
こんなふうに仕事しかやっていない大人って子どもたちにとって魅力的なのだろうか。
毎日職場と家との往復で、他に特にやっていることはないような大人。
子どもたちの目の前に立つひとりの大人としてそれでいいんだろうか。
もっと豊かな世界を持っていたほうがいいんではないだろうか。
我に返るように思った。
じゃあ、自分は仕事以外に何かしたいことがあったっけ。
アパートの畳の上にねころがって、天井を見ながら考える。
気が付くと、パソコンに「バングラデシュ ボランティア」と打ち込んでいた。

「バングラデシュの少数民族の料理を作って寺子屋を支援しよう」という掲示板の書き込みを見つけたのは、そんなときだった。
それはとても魅力的にうつった。寺子屋支援なんて、小学校教員の自分にぴったりだと思ったし、料理も好きだった。
それでもすぐには参加の連絡ができなかった。
なぜか。
社会人になってもボランティアをしているような人たちは、きっととっても真面目でお固く、僕のようなちゃらんぽらんの人間とは別の人たちのようなのだという、浅はかな偏見を持っていたからだ。今思うとすごく恥ずかしい。

それでも、このまま仕事だけじゃいけないと思い、数日後に料理教室への参加を決めた。
僕の偏見は非常に強烈な衝撃で粉々に砕かれることになる。
日曜日の昼だったと思う。
案内に書かれた会場を探すと、そこは中目黒と祐天寺の間、日比谷線の高架下のバーだった。
バナクラという店名が案内に記載されているが、その場所と思わしき場所のドアの回りには看板らしきものは何も無かった。
おそるおそる木でできたドアを開く。
窓も無い店内は、昼間だというのに薄暗く、カレーのスパイスらしき匂いと、それと同じくらい強く独特のお香のような匂いがしていた。
バナクラというよりは穴倉。まさにその言葉がふさわしい。
当時22歳。中目黒の看板もないバーなんてそれまで足を踏み入れたこともなかった。
大変なところへ来てしまったと思ったが、引き返す勇気も出なかった。

そこには先客が数名あった。みんな知り合いらしく、すでに酒も入って盛り上がっている。
えっと、料理教室だったよなと思いながら、やたら目のきれいなかんさんと名乗るバーのマスターの案内で隣のテーブルに座る。
隣の人たちは大声で楽しそうに盛り上がり続けている。
僕は縮こまって座っている。多分、この場で一番真面目に振る舞っているのは自分だった。予想とはまるで逆だ。
隣のテーブルの人たちの会話に聞き耳をたてる。
「イスタン」やら「ブエノス」やら「ヘレナ」と言った単語が飛び交う。
やたらフレンドリーな雰囲気でひとりの男性が握手を求めてくる。
「俺はひろ。名前はなんて言うんですか?よかったらこっちで一緒に。」
テーブルをくっつけ、僕もビールをいただく。
何と彼らはそれぞれがリュックひとつで世界を一周していた旅人たちだった。
もともと友だちだったわけではなく、世界のあちこちで何度か巡り合う中で、仲が深まったのだという。
イスタンはイスタンブール、ブエノスはブエノスアイレス、ヘレナはブタペストにある宿の名前だそうだ。
初めは緊張していたが、彼らの話はとってもスケールが大きく魅力的で、僕は惹き込まれていった。

ようやく料理教室が始まる。
料理をしながら会の趣旨を知る。
この会は、バングラデシュのチッタゴン丘陵地帯に住む少数民族の寺子屋支援を目的に催されていた。
そこには実際に少数民族出身のセカさんがいた。僕もよく行く渋谷の大衆居酒屋でバイトをしたお金で、自分の出身の村に寺子屋を建てたそうだ。
世界一周組は、帰国後の再会を祝う飲み会をその居酒屋でやっているときにセカさんに声をかけられ、料理教室に参加することにしたらしい。
セカさんはおだやかだけれど、情熱を感じさせる人だった。
この料理教室は、寺子屋支援をするための団体を作るための第一歩として企画したらしい。
「よし!みんなで寺子屋を助けようぜ!」誰からともなくそんな声がした。
普段なら絶対に接することのないとても魅力的な人たち。
彼らともっと仲良くなりたいと思い、僕もこのチッタゴンヒル子ども基金の活動に参加することにした。

それから、子ども基金の活動は一気に始まった。
僕はこの活動で旅人の行動力のすごさを目の当たりにする。
「迷ったらワイルドなほうを選べ」それが彼らの合言葉だった。
実際に行っていた活動と言ったら、料理教室やバーベキュー、鍋などを企画し、参加費を募り、そこから寄付金を捻出するという、あまりにシンプルなものだった。
けれど、活動の中心になっていたフレンチシェフのけんさん、通称シェフけんさんは、とにかくパワフルな人で、やることなすこと大胆だった。
まさか多摩川の河原でアンコウの吊るし切りを見ることになるとは思わなかった。
周りに集まる旅人も、僕がそれまで出会ったことのない本当に魅力的な人ばかりで、寄付金を集めるための会にはいつも多くの人が集まった。
毎回、新しい出会いがあり、酔い、語り、楽しかった。
ただの飲み会ではなく、この楽しさが離れた誰かのためになるという思いが、いっそう楽しさに拍車をかけていた。
寺子屋支援のための寄付は順調に貯まっていった。

寺子屋に飾られていた子ども基金メンバーの写真

ただ、ここで問題が起きた。
その寄付金を実際に現地に持っていく人が見当たらなかった。
現地に住むセカさんのお兄さんに送金はしていたものの、実際に現地を見たメンバーはほとんどいなかった。
なぜならみんな社会人であり、たどり着くまでに1日以上かかるバングラデシュの片田舎に簡単にいけるような状況では無かったのだ。
「そろそろ実際に誰か行きたいよね。」
「でも、誰か行ける?」
「店を空けるわけにはいかないし…」
おそるおそる口を開く。
「えっと、冬休みがあります…」
そういうとみんなの視線が一気に集まった。
「そうだ、せんせいは先生だった。」
会では「せんせい」と呼ばれていた。
「じゃあ、せんせいに行ってもらおうぜ。それがいいよ。」
「せんせい、早く言えよなー。」
ひくにひけない状況だった。
でも、わくわくしていた。
世界中を巡った旅人たちが集まっている会だったけれど、その中にチッタゴン丘陵地帯に行った人はいなかった。
その人たちに先んじて自分が行けることは、なんだかとてもうれしかった。
憧れの人たちの一員にそれでなれるような気がしたのだ。

2003年の12月。僕はチッタゴン丘陵地帯「チッタゴンヒル」に行くことを決意した。
それは忘れることのできない旅になった。

チッタゴンヒル子ども基金 最後の料理教室(2014年)

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