2019年1月20日日曜日

2019.1.4~1.6 HTH研修

2019/01/04

今日から武蔵野大学附属千代田女学園でのHTH(High Tech High)のPBL研修。
HTHというのはアメリカの先進的な学校で、PBL(Project-Based Learning)という方法で子どもたちは学んでいる。
今回の研修は、HTHから2人の教員が来日し、ワークショップを通してPBLについて学んでいく内容だった。

はじめはこの事業のパトロン?である経産省の浅野さんのスピーチ。
圧の強い情熱的な人だった。
自分が持っている官僚ってイメージとは違った。
「仕事が楽しい」って言い切っていた。
思わず昼休みに、「子どもたちに授業してください」ってぶしつけに頼んだら、そんなに悪い感触では無かった。
正直、教育の場に経産省なんていうどこかお金の臭いがぷんぷんする省庁が入ることに抵抗があった(ひどい偏見)。
でも、昼休み浅野さんと話すと、ものすごくクレバーな人で、ICT事業の拝金主義的な部分に対する批判もしっかりしていて、自分の浅はかなイメージが恥ずかしくなった。
同時に、今ある教育を大きく変えていくこと(破壊的イノベーション)は、積み上げてきた良さと背中合わせのしがらみを背負った文科省よりも、経産省のほうが起こしやすいのかもしれないなあとも感じた。
まあ、でもやっぱり現場の意地みたいなのも自分にはある。意地なのか意固地なのか、こうして振り返りを書いていたらくだらないものに思えなくもない。

ジョンがHTHとそこで行われているPBLの概要をおおまかに話す。
プロジェクトはハンド(常に何かを創る)・ハート(やりたいこと・役割の選択 自分の情熱を活かせる選択)・マインド(深い探究)のバランスが大切。
プロジェクトのデザイン指針
・公平性
・個別化
・真正な取り組み
・協働するデザイン

教員も二人一組でクラスを持つというのは、いいなあと思った。
教員自身が、まずは対話・協働からものを生みだしていく経験をしていく。
当たり前のことなんだけれど、学ばない人間が学びの楽しさを伝えることは難しい。(自戒をこめて)
僕は学んでいるんだろうか。

ワークは、簡単なアイスブレイクから、自分自身の学びの経験、その共有から重要な要素を見出す等、オーソドックスなものだった。
決して突飛ではない。
でも、細かいところだけれど随所にファシリーテーティブな配慮があった。
英語でもそれが伝わってくるんだから、やっぱりHTHの教員はたいしたファシリテーターなんだと思う。
ワークを促進する小さな配慮が細かに感じられた。
自然な笑顔で自然な語り口で緊張感をやわらげる。
随所にこちらの選択の余地を与えることで、やらされるワークから自分で決めたワークになっていく。
(小さな配慮に気づけるようになった自分の成長もちょっと感じた。)
もっと、想像もつかないようなアプローチをするのかと思っていた。
でも、そうではなかった。
思いもよらないようなやり方ではないのだ。PBLって、今自分の中にあるものから、そんなに飛躍したものではないのかもしれない。

その後、自分の学校でのプロジェクトの萌芽を探す時間があった。
・Oさんがやっている日直制度(写真・今日の一言)
・5年生の創作劇やお楽しみ会
・4年生社会 単元のまとめ 消火器プロジェクト 社会をよくするためのひとつのアイデア
・お祭り
・学級委員会企画
なんて感じでいくつかすぐに思い当たった。
自分を含め、やっている本人はPBLだなんて思っていないだろう。
でも、たしかにこれらはPBL的な要素を持った学習だ。意識的にPBLとして構成したら、きっとよりおもしろいものになると感じた。
そして、僕が今もその授業を越える感動を渇望している20歳のときの教育実習の授業も、図らずもPBLとなった授業だったなと思った。
そうか、僕はプロジェクトとしての学びの感動が出発点だったんだ。

そして実際にプロジェクトを組み立てるためのワークに移っていく。
まずは、リソースが無制限にある場合に、子どもが作り上げることができるものを5分で50個あげるワーク。
見学者としての参加だったんだけれど、見ているだけでは居ても立っても居られなくなり、近くの席の見学者4人で即席チームを組み、やり始めてしまった。
次に出されたアイデアをある程度やり方が分かり見通しが立てられるもの、もしくはムーンショット(困難だが実現すれば大きなインパクトのあるもの)・心が動かされるものの2種類に分けていく。

そして、その中から実際にひとつを取り上げ、そのプロジェクトの観客とプロジェクトのゴールであるエキシビジョンを考える。
学習の中身ではなく、ゴールとなる催しを先に考えるのだ。
ここで教員だけでなく、できるだけ外部の人や専門家に参加してもらい、批評を受けられるようにすることが、良いエキシビジョンだと言っていた。
きちんと社会に学習の成果を問い、応えてもらうこと。
たぶん、真正の学びってやつになるだろうと思う。

このプロセスをラピッドプロジェクトプランニングと呼んでいた。
このときに、とりあげるプロジェクトは先ほどのムーンショット・感動するものから選ぶという制約がかかる。
実現可能そうなプロジェクトから選ばないというのが、いやはや教員にも大きなチャレンジが促される気がした。

実際にSさんとやってみる。
お互い学校が違い、実現に向かう必要性が低い気楽さがそうさせたのか、次々にアイデアがでてきて、本当に楽しかった。
「新しい言語をつくる」というプロジェクトを即席で考えたが、本当に広がりと深さを作れ、学問的な学びも豊富なプロジェクトと思えた。

今日はここまで。明日も楽しみだ。


2019/01/05

HTH、PBL研修2日目。
そういえば、研修名がPBL×STEAMだったけれど、いまのところサイエンスやテクノロジーっぽさはまったくなく、アナログなワークばかりで、正直テクノロジーに疎い自分は安心している。

2日目はプロトタイプ(試作品)を作る経験から。
ハイヒールかボートのどちらかを選び(やっぱり選択の余地があった)、グループで段ボールと画用紙、はさみ、段ボールカッターを使い短い時間で作り上げるワーク。
昨日に引き続き、見学組でグループを組み参加してしまった。
僕らはハイヒールを作ることにした。
今回有効だったのは、とにかくまずは作ってみたこと。
話し合って計画して、できるって確信してから作り始めるのではなくて、大まかな計画を持って、とにかく作ってみた。プロトタイプってきっとそういうことなんだろう。
そうしてみると、作ってみた実感と実物があることで、早い時間に具体的な問題点が浮き彫りになった。
それができたのは、前半と後半の合間にとられた作業の手を止め、建設的な自己批評をする時間があったから。
行為の中の省察の時間か。
ここで新たなアイデアが浮かび上がり、結果としてはそのアイデアが非常に生きた。
初めの作業が走り始めた時点で、少しグループのなかで一歩後ろに下がった。だまっていれば二歩も三歩も前に出ようとするタイプだから、それでも前のめりだったかもしれないけれど、意識的に後ろに下がった。
そこまで自分の意見を反映させたいテーマではなかったからかもしれないし、勢いがついてからは、自分は口をはさまなくてもグループが前にすすみそうだったからだ。
それまでだまっていた女性の先生が意見を言い始めたことがうれしかった。
結果、できあがったものは、自分では思いつかないものだった。もちろん、すべてが自分の思い通りにはいかなかったけれど、でもおもしろいものだと感じた。
結構気に入っている自分がいる。

とりあえずプロトタイプを作ってみる。
その重要性をジョンは語っていたし、実感もした。
僕は今までプロジェクト的な学習の時間をしていたと思うけれど、そんな時間はとっていなかった。
子どもたちと試してみたい。

お昼前に卒業生のオカさんが簡単なスピーチをした。
HTHが好きだというオカさん。
どこが好きなのかという質問に対する答えが興味深かった。
「とにかく教員が魅力的。生徒と教員の距離が近いところ」
そう答えた。
これは意外だった。僕らはその教育内容こそがHTHの魅力と考えているけれど、卒業生が感じているものは別だった。
おもしろい。
でも、単にそれを人柄ってするのは違うんだろうなあと漠然と思った。
生徒の選択が大切にされることだったり、ともに探究する姿勢だったり、葛藤を受けとめながらファシリテートすることだったり、リフレクションが授業に溶け込んでいることだったり、そういう姿勢やスキルから生まれる魅力なのだと思う。
人の魅力というと、その人が持って生まれた魅力と思いがちだけれど、きっとトレーニングして見につくことや、トレーニングし続けようとする姿勢に、魅力はついていくのだろう。
実際にワークを受けていて、HTHの2人の教員のファシリテートは見事だと感じていた。
あとで分かったが、HTHの教員の養成を主目的とした大学院もあるという。
そして学び続けるための教員研修の仕組みもあるという。
それだよなあ。

午後のPBLパズルというワークが非常に興味深かった。
6週間のプロジェクトで行われる計画が1つずつの事象に細切れにされており、それを計画通りに並べていくというワークだ。
まずはこんなにも緻密に計画されていることに驚いた。
もっと、おおまかに計画すると思っていたからだ。
こんなに細かく計画したら、いわゆる一斉授業にならないかというのは疑問だ。
またもや見学組でワークにとりかかる。
与えられたテーマは蟻。
本当におもしろかった。
人によって計画の順番がこんなにも違うのかと驚いた。
どう考えてもこの順番だろうと自分が思う順番にならないのだ。
本当に違う。
きっと自分では気づかない構成のくせってあるんだろうな。
自分は導入を楽しくやりたいクセがあるんだな。
でも、やっぱり大雑把。
雑だからこそ、穴ができたときに、力任せに子どもを引っ張ってしまうのかもしれない。
他のグループも見て回る。
とにかく違う。面白い。
ということは、子どもだってプロジェクトの組み立て方って違うんじゃないかな。
ここまで緻密に組み立ててしまったら、こどもそれぞれの組み立て方は尊重できないんじゃないか。
ああ、いま強い疑問として浮かんだ。
明日聞いてみよう。

最後は昨日Sさんと作った「新しい言葉」を作るプロジェクトを、見学組でより精査していく。
今日はそのプロジェクトが持つ学問的な要素を多く見出だすことができた。
結局、こうしてプロジェクトとアカデミズムをつなぐ視点があれば、きちんとプロジェクトを通して学ばれていくものの意義を保護者に説明できるんだろうな。
今日から来た見学組の人も、このプロジェクトに興味を持ってくれてよかった。


2019/01/06

HTH、PBL研修3日目。
ひさしぶりに2日間フル回転で頭を使ったら、疲れてしまったのか朝はなかなか布団から動き出せなかった。

はじめは評価の話から。
いわゆる伝統的な成績表は子どものためにならないという。
まったくの同感。
成績≠評価。
ぐっときたのは、「評価とは、生徒を人として見て、それぞれの成長マップを書いてあげられること」という言葉。
翻訳を聞いたので、もしかしたら意訳なのかもしれないけれど、この言葉が心に届いた。
アセスメントやフィードバックこそが子どもを成長させる。
「ひとりひとりをきちんと見取る」という手垢にまみれた表現だけれど、やっぱりそれが大切なんだろう。
私が教えたことを理解しているか、ではなく、その子はこの学習を通してどんなふうに成長しているのかという視点でみられるかどうか。

自己評価の3つの質問もとても参考になった。
1.何がうまくいったか
2.何はもっとうまくできるか
3.それはどうやったらもっとうまくできるか
授業で自己評価は少しずつ取り入れているが、この3つを繰り返していけば、評価の精度が高まっていくように思う。というより、まずは自分のインストラクションがシンプルで分かりやすいものになりそうだ。

自画像を描いて批評し合うワーク。
僕はこれに苦戦した。
相手にとって意味のある批評。
ロンバーガーの言葉より、ジョンはそれを、親切で具体的で助けになるフィードバックと言った。
ただ、関係性のない相手に、具体的なフィードバックをすることに抵抗を覚えた。とても勇気がいる。
僕は躊躇してしまって、あたりさわりのないほめ言葉ばかりを書いた。
と、振り返ってみて気づいた。
結局これは自分自身を映し出している。
僕は信頼していない相手からの具体的なフィードバックを嫌っているのだ。
つまらないプライドがあるんだなあ、自分は。
目指している自分像とは違う自分に出会ってしまった。げんなり。

エキシビジョンとキュレーションのところの説明は、正直うまく理解できなかった。
終わった後に自分や周囲に変化があり続けるのがキュレーションてことだろうか。

プロジェクトチューニングというプロセスを、ある学校のふたりが計画したプロジェクトについて意見を言う立場で体験した。
これは、建てたプロジェクトの概要・感じている葛藤について伝え、外部者の質問によりプロジェクトの精度をあげ、深めていくプロセスだ。
概要や葛藤をプロジェクトの立案者が伝え、質疑応答ののち、立案者は傍観者となって、外部者同士の議論を聞く。この立案者が口をはさむことのできない議論の時間が長くとられていることが特徴と感じた。
途中から加わったNさんとプロジェクトについて議論する。
我ながら、プロジェクトをチューニングするいい議論ができたと思う。
それは、Nさんも、それから僕も、ある程度ファシリテートを意識していたからだと思う。
でも、それよりなによりも、立案者の2人が、とても受容的な雰囲気をまとっていたことが大きい。
何だろう。何で僕は2人のような柔らかさが持てないのだろう。
何で人に対して過剰に防衛したり、反応してしまうのだろう。
思いもよらず自分に足りないところを発見した。
でも、いやじゃなかったな。
とにかく、これはとても意義のあるプロセスだということを体感できた。
どう取り入れられるだろうか。

評価の解説の時に疑問を述べたことで、休み時間にジャメルが「あとで相談にきて」と伝えてくれた。
最後にその時間がとれたんだけれど、本当にこの時間がよかった。
シャイな子どもでもプレゼンをできるようになるためのプロセス。
まずはペアなど少ない人数で始める。
それから3人、4人…と聞く人を増やしていく。
人数を増やしていくときには必ず子どものフィードバックを聞く。
いきなり20人というようなサプライズはしない。
何回も小さなプレゼンの機会をつくる。
そうすることでプレゼン内容も子どもに内在化されていく。
ああ、なんだか言葉にすると当たり前のことになってしまい、なんだか残念だ。
「それは子どもたちに寄り添うってことですか?」と聞いたときに、ジャメルが微笑みながら深くうなづいた。
とても誠実で信頼に足る感じがあった。
たぶん、こういう人だからフィードバックが届くんだろうな。
ジャメルはさらに、自分が自己開示していく必要性も話してくれた。
自分自身も緊張したり苦しさを覚えることがあることも話す。
短い時間だけど、なんだかジャメルのハートの部分を感じることができた。
そうだよな、ここがやっぱりあるんだよなって安心した。
(ハートに頼って結局自分勝手になりがちなところがあるから、そこは自分を戒めたい)
昨日の強く引っ掛かっていた、細かくプロジェクトの内容を計画することで、結局子どもはレールに乗ったような学びになるのではないか、という疑問も伝えることができた。
ジャメルの答えはこうだ。
あくまで計画は教員の指針。
教員の描いた計画とは子どもの知的な興味の順序が変わることはよくある。
でも、全体の指針が教員にあるからこそ、順序が変わっても、それを受け入れられるのではないか。
むしろ計画がなければ、常にいきあたりばったりで、それこそそのときそのときに教員のあせりとともに決まったものを押し付けがちになるのではないか。
というもの。
心当たりがありすぎて、納得した。
最後に握手をしてくれたジャメルをとても身近に感じた。

HTHでは子どものアセスメントも、プロジェクトの準備も細かくなされている。
でも、それは、そこに子どもおしこめていくためではない。
子どもにより豊かな広がりと深まりのある学習をさせるために、緻密に設計するのだ。
僕は詰め切らずに、何とかなるでしょで、雑に放り投げてしまう。
実際に子どもの力でなんとかなることも多いけれど、成果も雑になることがある。
また、とっちらかってしまって、結局自分が引っ張ってしまうことも多い。
勘でやってしまう。
それでは、届かないんだ。それを実感した。
PBL風なだけで、終わってしまう。

ただ、光明も得ている。
今回の研修で数々の思考のためのフレームワークを知ることができた。
あれをうまく使えば、雑な僕の思考もうまく整理されるのではと、実感できた。
フレームワークは思考を制限するものでなく、整理し、次の一歩につなげやすくしてくれるものなんだ。
担任に戻ることが楽しみだ。
学年2クラスのうちの学校なら、ペアで組む教員とこのフレームワークが大いに活用できるだろう。

有意義な3日間だった。
英語の分からない僕にとって、通訳の方がいる安心感は非常に大きかった。
通訳だけでなく、本当にホスピタリティにあふれる場だった。
みんなで学べば楽しいよ。
えみさんが3日間繰り返し話していたこの言葉が、最後に浮かんできた。
本当に楽しい3日間だった。
終わるころには見学者グループに強い愛着を持っていた。いっしょの学校にいたら、きっと楽しいんだろうな。
Sさんに、「隣に座れてラッキーでした」と言われたときは「こちらこそ」の言葉が心から漏れた。
最後が情緒的になるのは悪いくせだけれど、終わってしまうことを寂しく思うくらいだ。
「ここから」って思わなきゃ。


ちょっと後日談。
この3日間の学びを活かして、PBLを始めてみた、って書ければ格好いいんだろうけれど、なかなか決めていたカリキュラムを大胆に変える勇気は持てなかった。
でも、授業のゴールをエキシビジョンとしてプレゼン大会をすることに決めた。そして、その前にはプロトタイプを作る時間を設定し、プレゼンの練習を繰り返す時間も設定した。プロジェクトの種をひとりひとりが創っていくような学習になる予定だ。
それから、今までは子ども同士でコメントを送りあわせた後に、僕はスタンプを押して返却していた冬休みの課題のレポートに、僕自身の言葉を添えて返すことにした。ジョンが言葉でのフィードバックが大切なんだって言ってたから。
ちょっと自分の変容が起きたかもしれない。

0 件のコメント:

コメントを投稿