2021年8月21日土曜日

「学校にあるはずのものがないこと」

うちの学校には、あるはずのものがない。

たとえばそれは、校長室。
うちの学校には校長室がない。
校長の机は教員室に他の教員と同じように並んでいるだけ。
小学校の代表である小学部長の机も、もちろん同じ。
他の学校におじゃますると、校長室に通されることがあるが、なんだか緊張してしまう。
校長室がある意味もあるのだろうけれど、うちの学校は応接室があることでこと足りている。
応接室なら他の教員も使える。
校長は「校長」でなく原口さんだし、部長は「部長」じゃなく後藤さんだ。
なんというか、「校長」や「部長」って扱いをしなくて済むのは、校長室のような部屋がないことも大きいように思う。
それから職層(肩書き)というものもない。
主任教員やら主幹教員という仕組みはない。
長幼の序、年功序列のにおいは漂っているけれど、少なくとも肩書きでの上下はない。
息子が通う学校の学校通信を見ると、わざわざ教員の名前に、主任教諭やら主幹教諭やらの肩書がついているけれど、あれは本当に意味が分からない。
それは保護者に必要な情報なのだろか。
職層がないのは、僕は性に合っている。
それから学校目標もない。
これがないのは、歴史的な経緯も関係しているのだろう。
教室の一番前の一番上に非常に真っ当な学校目標が貼られているのを見ると、何だか後ろめたくなってしまうだらしない自分には、学校目標がないことはよかったなあと思っている。
そのかわり、どんなことを学校として大切にしていきたいかを、教員で確認する機会は、細かくとっている。
実は、「学校として大切にしていきたいこと」という確認では無く、「私は教員として何を大切にしたいか」を確認してすり合わせることのほうがいい気はしているんだけれど、なんだかんだ「学校として」と言いつつ「私は」で語れている気もするから、それでいいと思っている。
校長室も学校目標もないけれど、やぎがいて、その糞がたくさん落ちていて、子どもたちがこぞって登るいちょうの木があって、たっぷりの休み時間があって、子どもたちの笑顔と温かさのある学校だと思っている。
ああ、あとたくましい雑草もたくさんある。
写真は体育の授業でやった「雑草取りリレー」。
畑の一番奥のひまわりの場所の雑草を10束抜いて、たい肥箱に入れて、次の人にバトンタッチ。
面白かったなあ。池や水田に落ちる子がいなくてよかった。
落ちても、それはそれでその子も笑顔だった気もするけれど。



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