2020年9月6日日曜日

20200904 石川晋連続講座「個別最適化の迷宮」

 金曜日は石川晋さんの連続講座「個別最適化の迷宮」に参加した。

ここ最近はめっきり「個別最適化」について懐疑的な気持ちになっていたので、どんな話が聞けるか楽しみだった。

はっきり言えば、個別最適化の悪口を言いたかった。


蓋を開ければ、もちろん昨今の個別最適化風なものに対する批評的な語りはあったけれども、それよりも、そもそも個別最適化とはなんなのだろうかということを考える時間になった。

初めの話は晋さんの「誕生日通信」の実践の話からだった。

「自分がやってきた実践の中で、個別最適化はどれかといえばこれなんだと思う」

クラスの誕生日の子どもひとりに向け学級通信を発行する実践。

子どものエピソードが書かれ、その子に送るために探された詩が載り、また晋さんも子どもの名前の頭文字から始まる詩を書いて送る。

「ひとりの子どものためのことが全体にも何かしらの影響を与えていく」

それを晋さんは個別最適化なのだと語った。


個別最適化を初めて知ったのはいつだろうか。

苫野さんの本を読んだときかもしれない。

僕の解釈ではこんな感じだった。

学級の中には様々な子がいて、いわゆる落ちこぼれもいればその逆の吹きこぼれもいて、結局現状の一斉授業はクラスの本の一部の子ども(学力で言えば中位からちょっと下位くらい)がターゲットになってしまっている。

そうではなくて、自由進度や子どもの選択を広げていくことを認めていけば、子どもひとりひとりにとってよりよい学習ができるはずだ。

そのような考え方のもと、取り入れられることが個別最適化だった。

とても共感した。

自分自身の子ども時代を思い出しても心当たりはあったし、教員として抱えているジレンマもあった。

それで自分も授業のなかで個別最適化を意識するようになった。


ただ、GIGAスクールやコロナ禍のオンライン授業のあたりから、この個別最適化の文脈が変わってきているという漠然とした違和感があった。

「個別最適化=パソコンを使ったAIチックな自学自習システム」みたいに単純なものにしていく傾向を感じて、自分の心が離れていった。

それはまるで、新自由主義的なものに教育が絡めとられていく流れにしか思えなかった。

それに個別化が孤立化になっているように思い、これまで学校で大切にしてきた(と自分は考えている)集団だから起きる麗しきカオスみたいなものがないがしろにされている気がしたのだ。

個別最適化が単なる効率の良いドリル学習のことになっている印象を受けたのだ。

それ自体は否定しない。でも、それが素晴らしくて、これからの学校の学習のど真ん中なんだと言われると、じゃあ自分の情熱を傾けることじゃないだろうなと思ってしまっていた。


こうやって振り返ると、自分自身が世の流れに消極的に迎合していたことに気づく。

世の中の一部の流れに自分自身の解釈がゆがめられ、ひとりで心を離していたんだろう。


晋さんが語ったように、個別最適化は従来の教員がみんな持とうとしていた「子どもたち一人ひとりへの力強いまなざし」に支えられるべきものだと思う。

子どもたちをひとりひとりの複雑で難解で愛すべき存在として受け止めて、そのうえでじゃあどうしていこうかって一緒に考えていくうちに、周りも巻き込まれていく。それが個別最適化だと僕は考えたい。


「そうしたら、この迷宮から抜けられるって、そう思いませんか」

そう言って笑った晋さんはとてもかっこよくて、思わず拍手をしてしまった。

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