2016年1月31日日曜日

個の自由と公共性 悩み深いこと

 中高6年一貫の男子校で育った。校則は無かった。私服登校も許されている一方で、標準服という学ランもあり、校内には私服と学ランの生徒が入り混じっていた。髪型も様々で、髪の色も茶色もいれば金色もいて、当時流行っていた一部を金にするメッシュなんていうやつもいた。(実は明文化されていないが、生徒に代々伝わっている校則というものがあった。それは「校内での鉄下駄禁止」「教室への出前禁止」「校内での賭け麻雀禁止」の3つだった。ふざけている。そもそも3つ目は、校則以前に法律で禁止されているではないか。)
「自由」が校是の学校だった。
 ただ、その自由に関して、入学の時に、先生からも、先輩からも口を酸っぱくして伝えられたことがある。それは、自由には責任があること、つまり、自由とは他人に迷惑をかけないことが前提であるということだ。
学校に入った当初は、先輩や先生の言う自由が誇らしかった。実際に人一倍自由を謳歌した。しかし、段々と違和感を抱えるようになっていった。他人に迷惑をかけない自由は、本当に自由と言えるのか、ということを考えるようになった。
(自由に振る舞えば、ある程度の、時には大きな迷惑が周囲にかかってしまうのではないか。そもそも何を迷惑と感じるかは、人それぞれであり、それは迷惑をかける側が規定できることではないのではないか。どこまでが迷惑でなくて、どこからは迷惑だ、なんて決めること自体が、感情の自由が束縛される気がしていやになっちまう…)
なんてことを、学校の帰り道でぐじぐじと考えていた。
どうしても自分には、「他人に迷惑をかけない」ことと「自由」は共存できないように感じられていた。そんな自由は、見せかけの骨抜きの、つまらない自由に思えた。

個人の自由と公共性の共存というのは、本当に難しい問題だと思う。思春期に抱えた違和感は今もぬぐえないまま、小学校の教員をしている。

教室を一つの社会としてみると、この問題は切実だ。個の尊重と集団の維持のバランスというのはいつも自分の頭を悩ませる。内面の信念に任せるのであれば、個の尊重にぐっと重きを置きたいと思う。それは教室内に多様性を生み出していく。一人の個人としてそれを受け止める器があるだろうか。いつも自問する。そして、教室にその多様性を受け止められるだけの寛容さは備わっているだろうか。いつも気にしている。
一方通行ではなく、互いに少しずつの迷惑をかけあいながらも、それでも許しあい、みなが自由を感じられる。さらに大きな自由を実現させるために、時に協同していく。そんなクラスを目指してきたように思う。そのためには相互の理解が必要で、そして寛容さが必要だ。それを大切にして子どもたちと接してきたし、説いてきたとも思う。それでも「もっと周りの迷惑を考えろ!」なんて言葉で子どもたちを叱ってしまうこともある。そんな時は自己矛盾に陥ったようで、沈んでしまう。

個人の自由と公共性の共存、これからも悩み続けて模索していくのだと思う。実はそれこそが、子どもたちが教室で学ぶ意味であるのではないかとも感じている。

 
 まとまらないけど、今日はここまで。

2016年1月2日土曜日

人の力は信じられるのか

というわけで、月1は更新するという目標のもとにやってきたブログも
早くも12月は更新なく、1月になってしまいました。
日が流れたところで、何か書き残したいことが降りてくることもなく、
自分で始めたこのブログに何かプレッシャーを感じている年末年始…

あけましておめでとうございます。

年始を迎えたので、今年の目標を。

今年は、「教職員の力を信じる」を目標にしたいと思います。

ところでみなさんは、ご自分の職場の人の力を信じていますか?

自分の周りの人を思い浮かべると、結構職場の人へ文句を言っている人が多いと思います。
理不尽な要求をしてきたり、責任を押し付けてくる上司へ、
うまく関係性を築くことができない同僚へ、
思うように動かず成長を見せない部下へ、
文句や愚痴を聞くことが多いというのが実感です。

僕ですか?
僕は一切このようなことは言いません。
と言いたいですが、やっぱり言ってます。むしろ、懺悔しますが、積極的に言ってきたほうです。
気の合う同僚とだけの居酒屋でまいてきたくだの数々は、とてもここには書くことができません。

今年はそれをやめようと思います。
それは、クラスづくりから学校づくりへと自分のフィールドを広げようと思うからです。

12年間クラス担任をしていて、僕はずっと子どもたちの力を信じてきました。
どの子どもにも力があると心底思ってやってきました。
こんなことを言うと、きれいごとだと言われるかもしれません。
また、「どの子にも無限の可能性がある」なんて言説に抵抗を感じる気持ちも分からなくありません。
正しい努力の方向で、努力を積み上げていけば、できないことなんてない、ということを言うつもりもありません。
が、やっぱり僕は今まで担任してきた子どもたち全員に何かしらの魅力を感じることができました。
万能的に見える子がいる一方で、その良さが見えづらい子もいましたが、でも、日々を過ごす中で、子どもたちひとりひとりに備わっているそれぞれの力を見出していくことができました。
そして、それを積極的に伸ばしたり、周りの子どもたちに伝えていくことが自分の仕事だと思ってやってきました。
じゃあ、子どもの力って何?という話を考え始めると、すごく長いものになりそうなので、これは別の機会で考えていきたいと思います。
(イエナプランで知ったマルチプルインテリジェンスという考えは、かなりしっくりきたので、興味のある方は調べてみてください。)

人の力を伸ばしていくときに、相手の力を信じているか信じていないかで、効果は変わってくる。
教育用語でピグマリオン効果と言われるものです
人は信じられて、力を発揮するものなのです。
僕は学級担任として、それを強く感じていました。
だからこそ、自らに子どもの力を信じることを強く課してきたように思います。

一方で、同じ職員室の仲間に対しては、前述の通り、文句ばっかり言ってきた気がします。
信じていなかった。

学級の子どもたちに対してできていたことが、学校の同僚たちに対してはできていなかった。
そしてそれにずっと気づかずに過ごしてきた。

このことに気づいたときは、結構ショックを受けました。
結局自分は学校全体のことは考えられていなかったのです。

というわけで、今年の目標は「教職員の力を信じる」に決めました。
狭い職場ながらも、いろいろな人がいますが、その人たちの良さを見出し、それを支え、伝えていきたいと思います。
クラスでやってきたことです。きっとできるはず。
それが学校を前に進めていくことにつながり、結果として子どもたちに還元されていけば、こんなに素晴らしいことはありません。
チャレンジしていこうと思います。

2015年11月30日月曜日

人だから、合う合わないはある・・・のか?

 月1では何か書こうと決めていたのにも関わらず、早くもネタ切れしての月末。自分の12年間の教員生活なんてこんなもんだと自虐的になっておりますが、ひねり出した渾身の文章をどうかお読みください。

 教員をやっていて、これだけは言わない、思わないと決めていることがいくつかある。子どもの人格を否定することを言わないのは当たり前だが、いつどこの場でも言わないようにしている。他にも、モンスターペアレントという言葉を特定の人にかぶせることも絶対にしないように決めている。大切な教え子の、その親をモンスター呼ばわりすることで解決することがあるとは、まったく信じられない。それからもう一つ、「人だから、合う合わないはある」という言葉は絶対に使わないと決めている。思うこともしない。

 「人だから、(友だちに対しての)合う合わないはある」という言葉は、学部時代の実習の時に、ある先生から教わった言葉だ。そのあとに、先生は続けて「だから、合わない友達との距離の置き方を考えていきましょうと教えるんだ。」と言った。それを聞いたとき、激しい違和感を覚えたことを今でも忘れることができない。
 「人だから合う合わないはある」と教えてしまったら、子どもは「合う」と「合わない」という単純な二元論で友だちを判断してしまうのではないだろうか。それに僕は激しい抵抗を覚えたのだ。「合わない」と人を判断するのは、何かその時点で、永続的に、交わりや分かりあうことを放棄するような気がして、そんなことを子どもに教えるなんて、絶対にすべきではないと思ったのだ。
ただ、教員となり、学級経営をしていく中で、子ども同士で馬の合わない組み合わせがあることは受け入れざるを得ない事実だった。それが起こったときに、お互いが努力して分かり合わなければいけないと諭すことが、子どもを追い詰めていく。そんな場合もあるということも経験した。その子が真面目なら真面目なほど、友だちを受け入れられない自分を責めるのだ。あの先生の言葉は、そんな真面目に自分を責めてしまう子どもを救うための一言だったのだと、その時分かった。

しかし、それが分かりながらもなお、僕は「人だから、合う合わないはある」という言葉を子どもたちには投げかけることはしていない。やはりその言葉の持つ負の力は大きいと思うからだ。子どもたちに、人間は「合う」人と「合わない」人の2種類に分かれるんだよ、というメッセージを送ることは絶対に避けないといけないという強い思いがある。
馬の合わない組み合わせがあったときに、「ちょっと距離を置いたほうがいいのかもしれない。」という内容のことを子どもとの会話で出すことはある。ただ必ず次のことも付け足すようにしている。「今はうまくいかないけれど、きっともう少し時間が経てば、相手も、それから君も、ちょっと変わって、ひょっとしたら仲良くなれるかもしれないね。」そして、僕は、どうして馬が合わないのか、一生懸命考えてみて、それを変えられるように助けられることは助けようとする。
それから、クラス全体にはこう言っている。「なんだか仲良くなれないなって友だちがいるかもしれない。でも、きっとそれは、好きになれないところがあるってことで、反対に、同じ子のなかに、好きになれるところもあるのかもしれない。人っていうのは、単純じゃないからさ。ひとりの人の中に、いろんなことが混じっていて、ひとりの人になるからね。だからできれば、自分が好きだなってところを、相手の中からたくさん探せたら素敵だよね。」
ひょっとしたら、この全体に話していることは、自分が子どもを見ている見方なのかもしれない。そうか。なんで「人だから、合う合わないはある」っていう言葉に、すごく抵抗感を覚えるかって、それって子どもに「(先生だって)人だから、合う合わないはある」っていうメッセージを暗に伝えることにもなるからなのかもしれない。子どもが「自分は先生にとって「合う」の?それとも「合わない」の?」そういう風に考えてしまうメッセージなのではないだろうか。そんなことを伝える教師に僕はなりたくないのだ。
この12年間、100人以上の子どもを教えてきたけれど、幸運なことに、誰一人も「合わない」子どもに会ったことがなかった。どの子どにも好きなところを見つけられて、そして好きになれた。きれいごとではなく、それは本当のことだ。だからこれからも「人だから、合う合わないはある」って言葉は絶対に使わないようにできると思う。
そして、子どもたちもそんな風に育ってほしい。誰とでもすべてがすべて分かり合える関係にはなれなくても、「合わない」と切り捨てるのではなく、どこかに「合う」要素を探していけるような、そんな人になってほしい。きっとそれが、多種多様な人々を受け入れていく素敵な社会を創っていくことにつながると思うからだ。






 というところで文章を締めたかった。美しく締めたかった。が、懺悔する。子どもたちにはそんな風に接してきたと、胸を張って言えるが、ある集団の一員としての自分を省みるとどうだろう。僕はその中で「合わない」人がいるという態度をとってきた。それは自覚的でもあり、それ以上に無自覚的でもあり。
 きっと「合わない」んじゃない。勝手にそう決めつけているだけだった。僕は変わらなければならない。

2015年10月27日火曜日

「ちいさな哲学者たち」を見て



2010年のフランス映画、「ちいさな哲学者たち(JUST A BEGINNING)」を見た。
この映画、必見です。

フランスの幼稚園で、ある女性の先生が、4歳の子どもたちを相手に、哲学の授業をした2年間を追ったドキュメンタリー。
来年から小学校で哲学対話の実践を始めようと考えている自分にはぴったりの映画だと思い、期待を胸に見た。
期待以上だった。素晴らしかった。

机の無い教室で、子どもたちは円の形で椅子に座っている。
先生がろうそくに火をつければ、哲学の授業の始まりだ。
『友達とは?』
『リーダーとは?』
『頭がいいってどういうこと?』
明確な答えが無い問いに対し、子どもたちは自分の考えを口にしていく。
先生はその答えに「いい答えだね。」とか「それは違うんじゃない。」などの評価はしない。
ただ黙ってそれを受け止める。また、時には答えを深める問いを返す。

子どもたちが、抽象的なテーマについて対話をすることは、大きなハードルだと、僕は考えていたが、画面に映る幼稚園児たちは、いとも簡単にそれを飛び越えていた。
先生は言う。
『子どもは先入観なく熟考する。大人は「どんな意図でこの質問を?」と考える。そこが違う。』

『愛』をテーマにした対話では、離婚が話題に上る。
僕だったら避けたい内容だ。
しかし、先生は止めない。
「子どもの取り合いになるわ。」子どもは自分の意見を素直に述べる。
そして、話は女性同士の恋愛の話に変わっていく。
これもまた、自分だったら教室に持ち込まない話題だ。
『女同士だと恋にはならないの?』
先生は迷わず投げ返す。子どもたちは真剣に考える。

また『違いとは』というテーマでは、肌の色の違いが話題に上り、ある褐色の肌をした男の子はこう言う。
「黒人でなく白人になりたい。」
教室には、黒人も白人も混血の子もいる。しかし、先生は避けることなく、この話題を掘り下げていく。
『理由は説明できる?』
「黒人はきらい。」
「白人になりたい。白人のほうがやさしいから。」
「そのままの弟が好き。パパもママも犬も好き。」
ある黒人の女の子が話し出す。
「パパには目立つ障害がある。私のようには歩けないけど、できることがたくさんある。
パパは私を愛してる。パパと私はそのままのお互いが好き。」

同性愛、人種差別、貧富の格差…幼稚園児たちの対話は、今の社会が解決できていない問題を浮かび上がらせる。先生は、止めることなく、むしろすすんでそれを浮かび上がらせていく。子どもたちは、自分なりの答えを見つけようと考える。

哲学の授業では答えはない。先生は一切答えを提示しないし、ある方向へと意見を誘導するようなこともしない。
だからこそ、子どもたちは必死に考える。自分の答えを自分の中に問いてみる。そして、人に聞いてもらおうとする。周りの子どもたちはそれを聴く。友達の答えの中に、自分の答えのヒントがあることが分かっているのだろう。
わずか4歳、5歳の子どもたちが、素晴らしい対話をするのだ。

子どもたちには自ら学ぶ力がある。それを実感せずにはいられない。

僕たち教師は、いや、僕たち大人は、自分たちがいまだ答えにたどり着けていないことを、子どもたちから隠そうとしていないだろうか。
子どもたちに、「ねえ、どうして?」って聞かれて、うまく答えられない問いを、子どもたちから遠ざけようとしているのではないだろうか。
そうやって、実は何より、自分たち自身がその問いに向かい合うことを避けているのではないだろうか。

そんなことを考えた。

そして、自分自身が答えが出せていない、どこか遠ざけてしまっている問題と向かい合う覚悟が無ければ、本当の哲学対話なんてできっこないんだと、幼稚園児たちに教えられた。
「先生も答えが見つからないんだ。だからいっしょに考えたいんだ。」
子どもたちの力を信じられたら、それが言える気がする。

ぜひみんなに見てほしいなあ。それでみんなで感想を共有したい。

2015年9月27日日曜日

理想の学級 2015.9.27ver.

ひとりひとりが自由を感じているクラス。
自由とは、自己選択、自己決定ができる、もしくはできると思えること。
自分の自由とともに、クラスメイトとして対する相手にも自由があることを知っている。
相手の自由を尊重できること。
誰かの自由と誰かの自由が衝突することを知っている。
自由と自由の衝突を乗り越えたときに、新しい大きな自由が現れることを体験したから知っていて、それを目指せる。
例えば、休み時間を静かに過ごしたい子とにぎやかに過ごしたい子が衝突したときに、その2人が納得できるような方法を自分たちで見つけられる。
誰かの自由のために、誰かの自由が常に抑圧されることがないクラス。
ひとりで過ごす良さ、2人ですごす良さ、何人かですごす良さ、みんなで過ごす良さがある。
ひとりでマイペースに壁当てしたいときも、2人でキャッチボールしたいときも、守備練習も、みんなでの試合も、やりたいことをやりたいと言えて、それが叶うときもあれば叶わないときもあるけれど、叶わないときは理由が分かるといい。

「こうしなければいけない」ではなく「こうしたい」「こうなりたい」が行動の根拠になる。

人は違うものだという前提をみなが共有している。
そして、違いこそが楽しさを生み出すということを体験から感じている。
多様性を楽しみ、多様性の幅が広がっていくことを喜べる。
不躾に見えるけど、根底には人に対するちょっとばかりの無条件の敬意があること。
秀でている何かにではなく、人であることだけで敬意が持てるといい。
薄いけど、たしかにある自然な敬意が土台としてあるように。
言葉にはできなくても、それをお互いに感じていますように。
おおげさな温かさではなくて、ほんのり温かい感じ。
礼儀は、家族に接する程度で。
形にはまるのではなく、内側からから形作られていくように。

2015.9.27 いまのところはこんな感じ


人に伝えられるように具体的なイメージにしていくこと
今までの出来事と結び付けてみること
それを具現化するためにやれる具体的な手立て
そこに教員はどのように関わっているのか

そういうことも考えていきたい

2015年8月31日月曜日

私立学校に勤めていることについて

大学4年のとき、いわゆるゆとり教育への批判キャンペーンが大きく起こっていた。
それに対し、教育行政も揺り戻しと呼ばれる方針をとろうとしていた。
自分はいわゆるゆとり教育とされ批判にさらされたものの1つの総合学習について、非常に有意義なものと考えていたので、この動きに反感を持っていた。
職場として私立学校を選んだことの大きな理由は、この時の気持ちがある。
当時は、教育は普遍的な営みであり、その時その時の世論の流れで右往左往するものではないと考えていた。(今は多少の右往左往をしながら、普遍的な営みを探求していくものだと考えている。)子どもと日々面している教員ではなく、官僚が教育の大きな流れを決めていくことには、納得がいかなかった。
自分の思う良い教育をやりたい。それが出来るのは私学なのではないかと考え、公立学校の教員になるための教員採用試験は受けずに、私学を就職先に選んだ。

就職した学校は、教員の自主性が尊重され、自由な教育ができる環境があった。
東京都ではあるが、多摩の自然豊かな環境の中、詰め込まずにのびのびと子どもたちを育てていく学校の姿勢は、自らの教育信念とも重なり、思い切って仕事に打ち込むことができたし、その気持ちは13年たった今も変わらない。

ただ、いつでも心にひっかかっていることがある。
それは、幼児に対し選抜をすること、そしてそれに伴い、受験のために幼児期を費やさせてしまうこと、さらに、経済的、その他条件に恵まれた子どもたちしか相手にしていないことだ。

選抜試験を設け、わずか5才の子に対し、当落させるという行為は、果たして教育的であろうか。
二度と帰ってはこない幼児期のほとんどを、試験に通るために、お教室という塾通いに費やしている子どもたちを、私たちは作っている。

「お教室に通っていない子も受かるような試験を」を合言葉に、知識を問うような試験は排除し、生活経験や協調性などを重視する試験をやっているつもりだ。
それでも、ふたを開ければ、合格する子の多くはお教室出身者だ。
(受験者におけるお教室出身者の割合がそもそも多いのだろう。)

私は、幼児に対し、選抜試験をやることや、またその準備のために日々競争にさらされるようなめに合わせることへ大きな抵抗がある。

そういう自己矛盾をずっと抱えている。

また、公立に比べ学費及び必要な費用が非常に高く、たとえ教育理念に賛同したとしても、経済的理由で通うことを断念している家庭も多いだろう。
選抜試験をやることによって、排除されてしまう子どもたちがいる。
恵まれた家庭の、さらにその一部の子どもだけを相手にしながら、私は教壇に立って平等を説く。
そんな時胸が痛む。



私学を職場として選び、楽しみながら働き、それでもひっかかっていることがそのようなことだ。
悩ましさゆえに、職場を替えることも考えたことがある。
でも、私が公立に移ったところで、私立学校が無くなるわけではなく、上記のようなことが無くなるわけでもない。
私立学校がそれぞれ掲げる独自の教育理念に賛同する人たちは必ずいるし(私学が支持される理由はそれだけではないが)、教育に幅があることも良いことだろう。
何より、自分の思ったことを実現できる環境は、他の何にも替えられないほど、やりがいがある。


自分のひっかかりに対し、今現在自分を納得させようとしているのは、次のような考えだ。

まず一つは、入学した後はその時にしか得られない経験をさせること。
学校の中で、自由な時間を多く設定し、それが豊かものになるよう、自然環境に代表される学校環境を整えていく。
教室内の交わりはもちろん、教室を越え、異学年の交わりを増やしていきたい。
そのための方策もすすめている。

もう一つ。多様性を感じさせるような経験をさせること。子どもたちの日常は、良くも悪くもある程度の同一性が保たれてしまう。(子どもたち目線では、様々な子どもがいると感じているだろうが。)
だからこそ、もっと多様な人がいることを、意識して教え、実感させていきたいと思う。
様々な学校や施設、地域との交流がカギになると考える。

そして、平等よりも不平等を説いていきたいと思う。現実にある理不尽な不平等を説いていくことで、社会貢献できるような子どもたちを育てていきたい。
理不尽な格差を固定したり、広げるのではなく、格差を是正していけるような、そういうリーダーを育てたい。

そんなことを意識し、やっていきたい。

自分のひっかかりに対し、絶対の答えはあるのだろうか。
こうして言葉にしてみれば、もっとすっきりすると思っていたけど、逆にまた悩ましくなってしまった。
導き出した答えも、すごく無理やりなこじつけの気もする。
ただ、迷いながらも向かい合っていきたいと思う。

2015年7月26日日曜日

苫野一徳「教育の力」を読んで

最近の自分の教育への考え方は、主に2人の方から絶大な影響を受けている。
1人は岩瀬直樹先生、もう1人は苫野一徳先生だ。
昨日は苫野一徳先生の「教育の力」を読んだ。

あとがきより
「教育とは何か、そしてそれは、どうあれば「よい」といいうるか。前著『どのような教育が「よい」教育か』でこの問いに挑み、わたしとしてはさしあたり原理的な“答え”を解明できたのではないかと考えています(中略)前著が原理(理論)編だとするならば、本著はその実践編というべきものです。」

自分はこのあとがきに書かれている「どのような教育が「よい」教育か」という本にに大きな衝撃を受けた。
自分がやってきた、もしくはやりたいと考えている漠然としたことが、そこには具体的で力強い言葉で書かれていた。

「結論からいっておこう。教育の「本質」とは何か。それは、「各人の〈自由〉および社会における〈自由の相互承認〉の〈教養=力能〉を通した実質化」である。」

冒頭に述べられ、その後何度も出てくるこの言葉は、自分の教育活動に一本の背骨を作り出したように思う。

子どもに自由を教えたい。曖昧ながらずっとそう思ってきた。その思いを持ち続けて10年以上教員をやってきた。
しかし、そもそも学校というシステム自体が自由とは相容れないものであるという矛盾を感じながら、その矛盾の中で、それでも自分ならできることがあるはずだという思いが原動力になっていた。
それは何か答えのない営みのように思えて、息苦しさを感じることが何度もあった。

しかし、今、自分の目の前は大変明るいように思う。やるべきもの、目指すべきことがはっきりしたのだ。
今回読んだ「教育の力」には、その材料がいくつもこめられていた。

「学びの個別化」…子どもそれぞれのペースで学習をすすめられるようにすること
「学びの共同化」…学びを、子どもたちの「学び合い」によって深めていくこと
「学びのプロジェクト化」…教科や単元ではなく、子どもの内発的なプロジェクトを達成していくプロセスで、学び方を学び、自ら思考し課題を探究・解決していく経験を積む(学生時代に私が魅了された総合学習の理念に近いものだと思う)

上記のような学び方が提案されている。そして、その背景にはそもそもの学力観の変化があると述べられている。
現在の学力を知識をため込む力とし、これからの学力を「学ぶ力」-必要な時に必要な知識・情報を得て、それを持って自らの課題に向かえる力-としている。

この学力観の変換も大いに頷ける。だとすると、学力を子どもたちにつけていく我々教員のやるべきことも変わってくるはずである。

しかし、この学力観の変換が学習を変換させるには大きな障壁があると言わざるをえない。なぜならば、知識をため込むことを学力としたほうが、我々教員にとっては、実は都合がよいからだ。
その理由は以下の通りだ。

1.教員自身が知識をため込む学習をしてきている。人は自分の受けてきた教育を肯定しがちである。また、学習者としての経験のないものを教師として教えるのは難しい。
2.知識の定着の具合、知識量はテストによって客観的に把握しやすい。「学ぶ力」を客観的に判断することは難しい。

ここで論じたいのは、2についてである。
単なる知識を問うテストに対する批判は長く教育界にある批判だと思う。
しかし、批判があるものの、それは無くならない。
なぜだろうか。

知識の定着の具合や知識量はテストで測りやすい(もしくは測れていると考えやすい)。
テストで測れるということは、学習の伸展が見えやすいということだ。
学習の伸展が見えやすいということは、教員が自らの教育活動の有意を確認しやすいということだ。

教員はきっとみんな不安だ。
あえて「みんな」と言ってしまおう。
自分は不安だ。
常に自分の今の授業、今の子どもの見方、今の言葉、今の振る舞い…
それらが本当に学びにつながっているのか、不安なのである。
その時に、単元ごとにやるテストで、ある程度の成果が見てとれれば、
それは大きな安心につながる。
ああ、自分のやっていたことは間違えではなかったのだと。
テストで子どもの成果を可視化するのは、子どものためよりも、ひょっとしたら教員のためなのかもしれない。

であるならば、新しい学力観の定着には、知識を測る従来のテストに変わる評価観が大切になってくるのだろうと思う。
この本にも新しい評価の例として「パフォーマンス評価」が挙げられている。
しかし、新しい学力観と評価がいまいちしっくり結びつかない気もする。
学ぶ力はどこまで可視化できるのであろうか。

ただ、教員が自らの教育活動を肯定できるような仕組みは絶対に必要である。
それが新しい学力観、新しい学びを推し進めることに繋がるのだと思う。


私自身は、その仕組みの構築を待たず、来年以降、踏み出していこうと思う。
この本で提示された、新たな学力観や新たな学びを下敷きにし、
岩瀬実践をなぞりながら、
私にできる学習を追求していってみたい。
それはもう、気づいてしまったからだ。
このままではいけないと気づいてしまったからだ。

立ち止まって考え、踏み出す勇気を得る時間が必要だったんだと、そう思う。