2021年2月14日日曜日

ウネリウネラのブログへの寄稿①

 https://uneriunera.com/2021/01/18/kodomotachi/


緊急事態宣言が出されている中で、小学校1年生の3学期始業日を迎えました。

毎朝、子どもが教室に入ってくる前に、黒板に朝のあいさつとメッセージを書きます。しばらくぶりに会う子どもたちに、「あいたかったよ。」、そう素直な気持ちを書きました。

冬休み明けの初めの日になるので、年末に片づけたものを、朝来た子どもから順に元に戻してもらうために、その手順も黒板に「あさ やること」として書いていきます。どんな順番にやってもらおうか、ちょっと考えて、白いチョークで「1.ともだちに「おはよう!」」と書きました。机に載せられた椅子を降ろすことや、棚にしまわれた道具箱を準備することよりも、何よりも初めに、クラスメートとの再会を喜んでもらいたいと思ったからです。

「おはよう!」たかしくんは元気に大きな声を出すだろうな。「おはよぅ」とはにかみながら返すのは、みほちゃん。ひとりひとりの子どもがどんなふうに「おはよう」のあいさつを交わすのか、それを想像すると、誰もいない教室で、ひとり笑顔になりました。

でも、はっとして、黒板消しをとり、今書いたことを消しました。そのかわりに書いたことは「1.マスク・てあらい」。僕たちは、“新しい日常”の中にいることを思い出したのです。「おはよう」のあいさつの前に「マスク・てあらい」。“新しい日常”の居心地の悪さを感じながら、それを呑み込むように「2.ともだちに「おはよう!」」と続けて書いていきました。

始業時間が過ぎ、子どもたちが教室に入ってきます。「アリック、あけましておめでとう!」(僕は子どもたちから「アリック」と呼ばれています。)「あけましておめでとう、ゆうきくん。」

久しぶりに友だちに会う高揚からか、普段より大きな声のやりとりがあちらこちらから聞こえてきます。「そのマスク、初めて見た!かっこいい!」「おばあちゃんが作ってくれたんだよ。」うれしそうに答えるのは、せいやくん。子どもたちは様々な色や柄のマスクを、洋服のように楽しんでいる様子が見えます。

マスクのせいで子どもたちの顔は半分しか見えません。顔の小さいまりさんにいたっては、目のところだけがちょびっと見えるだけです。初めは表情が見えづらく感じました。でも、マスクには隠されない目元に表れる表情を、僕はいつの間にか読み取れるようになりました。みなさんは、どうでしょうか。

毎朝行っている絵本の読み聞かせ。3学期の一冊目に、どんな本を読むかは、それなりに迷いました。何か特別なメッセージが伝わるような、そんな一冊にしようかと考えましたが、悩んだ末、かがくいひろしさんの「おもちのきもち」を選びました。言葉遣いのとても丁寧な鏡餅が、床の間から逃げていく、そんなとっても愉快な一冊です。伝わってほしいメッセージはありません。ただ3学期の1冊目をめいっぱい楽しんでほしいと、そう思いました。不安が日々を取り巻いても、教室の中は安心と楽しさで満たそう、そんなふうに思って選んだ一冊です。

読み聞かせると、教室は笑いにあふれました。マスクで半分が隠れた子どもたちの表情も確かに笑って見えました。それを見て、何より自分自身が安心しました。僕の好きな日常はこれだなあと思いました。

(子どもたちの名前は仮名です。)

2021年1月10日日曜日

旅を回顧する

この文章を書いている2020年8月、本当なら日本を飛び出し旅行を満喫しているはずだった。コロナの影響でそれは叶わなくなった。この苛立ちをどこにぶつけようか。
振り返れば、2000年から2010年にかけて、20代の頃はいつもひとりで旅に出ていた。旅行ではなく「旅」なんて言うと大げさな気もするけれど、あれから10年が経って振り返ってみると、あの日々はやっぱり旅行ではなく、旅と言うほうがしっくりくるのだ。
無計画で無鉄砲な旅を回顧したい。

あの頃、長期休みのたびに、リュックをひとつ背負って、世界のあちこちにでかけていた。目的地は主にアジア。そのなかでも、中国や台湾、そしてインドやバングラデシュには、複数回足を運んだ。それからタイのバンコクはインドやヨーロッパへの経由地として何度も利用した。
当時、バンコクで航空券を手配すると、日本では買えないようなめずらしい航空券が割安に手配できた。日本人経営の旅行会社がいくつかあったので、手配もそこまで難しくなかった。今のように航空券をすぐに検索できるのではなく、膨大な航空券が記載された表の中から希望する航空券を探し出す。その作業も楽しかった。
2005年にトルコのイスタンブールから入って、フランスのパリから出るエミレーツ航空の割安の航空券を見つけたときはとびあがるほどうれしかった。旅の途中にバンコクで宿泊するときは、チャイナタウンに出かけ、900円くらいで食べられるふかひれスープを味わうことが好きだった。

「旅の面白さは荷物の重さに反比例する」そんな旅人の格言を信じていたから、たとえ3週間の長い旅でも、シャツとパンツは3セットまでと決めていた。部屋で洗濯物を干すときに使う洗濯紐と、手洗いのための洗剤の粉は必ず持っていった。宿の周りで安い洗濯屋を見つけるとうれしくてたまらなかった。

今のようにはインターネットからたくさんの情報をすぐに引き出すことはできなかった。スマホはなかったし、ネットをするには街中でネットカフェを探さなくてはいけなかった。ようやくネットカフェを見つけても、速度が遅かったり、そもそも日本語が表示できなかったりすることも多く、情報にアクセスすることは容易ではなかった。情報源は主に図書館で借りた地球の歩き方だった。それを読み込んではいたけれど、あえて旅程を細かく立てることはしなかった。ひとりだから許される気楽な行き当たりばったりを楽しんでいた。

初めての街に着くそのときが一番わくわくした。好きな到着の仕方は夜行列車。カーテンを開け、車窓に飛び込んでくる陽の光と聞きなれない言葉が行き交う喧噪で朝が来たことを知る。知らない街の知らない駅のホームに列車が着く。列車から降りて、駅の出口を探す。駅から一歩外に踏み出す。そして街を見渡すとき、決まって気持ちが高揚した。ガイドブックの地図から街の様子を想像するのだけれど、その想像が当たったことなんて1度も無かった。目の前には想像とは違う初めての街の風景が広がっていて、途方にくれ、とても心細くなる。矛盾するようだけれど、この心細さと胸の高鳴りは同時に襲ってくる。その形容しがたい妙な高揚がたまらなく好きだった。

宿は現地についてから探した。街行く人にたどたどしい英語で安いホテルの場所を聞いてまわる。たどり着いたフロントで部屋を見せてもらうよう頼む。
貧乏旅行を気取っていたので、安宿ばかりを使っていた。今では考えられないけれど、アジアでは一泊1000円を下回るような宿を愛用した。その値段で泊まれる部屋は、たいていは部屋の中にベッドとテレビだけという殺風景な部屋であることが多かった。そこにエアコンがあるかないかで値段が変わる。それからホットシャワーの有無も重要。お湯が出るかどうかでも値段が代わるのだ。水シャワーもへっちゃらだった。若かったのだ。ときには見知らぬ人と相部屋になるドミトリーにも泊まった。深夜に鳴り響く大柄なロシア人のいびきがうるさくて眠りにつけなかったことも、今ではよい思い出だ。

そして安宿でさえ、必ず宿賃を値切っていた。なんともけちなようだが、それが当時世界中にいた日本人バックパッカーの流儀だった。旅先で日本人バックパッカーに会うと「どこどこの○○って宿は一泊いくらで泊まれるよ」なんていう会話が挨拶代わりだった。

00年代前半当時、電波少年というテレビ番組の海外ヒッチハイク企画の影響で、日本人バックパッカーは世界中に多くいた。バックパッカーの聖地であったバンコクはもちろんのこと、地球の裏側にあるメキシコシティでも日本人バックパッカーに会うことができた。

バックパッカーに人気の安宿には、必ず「情報ノート」という手書きのノートがあった。貼り付けられたチラシなどで、ずいぶん分厚くなったノートには、たくさんの人が様々な情報を書き込んでいた。安くておいしいレストランの情報は定番だったし、有名観光地にどうやったら安くたどり着けるかなどの情報も多かった。それから周辺の都市のおすすめの宿情報は次の目的地選びにとても役に立った。夜の街や薬物など危ない情報も書かれていた。そこには旅人の生の情報がこれでもかというほど書き込まれていた。それは地球の歩き方には書かれていない情報だった。顔も知らない誰かの書いた情報を自分のメモ帳に写す。そこから実際に行動に移すことにはある程度の勇気が必要だった。それはまるでRPGのゲームを生身で経験しているようだった。「イスタンブールのバスターミナルの54番のカウンターはソフィア行のバスのチケットが1番安い」「ブダペスト駅前のソフィテルホテルのカジノは20時に無料の軽食とドリンク有。食事代を浮かせることができる。要パスポート。」20年以上が経った今でも必死に写したノートの内容を思い出すことができる。

「日本人宿」と総称される日本人がたまり場とする安宿も世界中に点在していた。日本人宿には何か月単位で長期滞在する旅人もめずらしくなく、共同生活のような小さなコミュニティがあった。僕はこの日本人宿があまり得意ではなかった。ひとり旅ではひとりになりたかったのだ。情報ノート見たさにふらっとおじゃまするようなことはよくやっていたが(安宿の共有スペースへの出入りはすごくゆるやかであることが多かった)、実際に宿泊することは滅多になかった。それでもメキシコシティの「サンフェルナンド館」やイスタンブールの「ツリーオブライフ」、ソフィアの「バックパッカーズイン」など、良い時間を過ごすことができた宿もある。2004年にサンフェルナンド館で出会った大学生とはメキシコのプロレス・ルチャリブレを一緒に見に行ったし、2005年にツリーオブライフで出会った同い年のとおるくんとは情報ノートを頼りにバスを乗り継いで、ガイドブックにはのることのない現地の人だけが使うようなトルコの伝統的銭湯ハマムを探し歩き、一緒にサウナを満喫した。今になってみれば、もう少し日本人宿に挑戦してもよかったのかもしれない。面白い出会いがあったかもしれない。

天邪鬼な性格だったから、日本人宿があるようなバックパッカーに人気の街よりも、あまり人気のない街に積極的に足を運んでいった。

2006年に訪れた西インドは思い出深い。インド最大の都市であるムンバイから始めた旅の目的は、遺跡を見ることだった。子どもの頃から遺跡に興味があった。シュリーマンの古代への情熱を読み、同じように情熱に胸をたぎらせた。西インドで楽しみにしていたのは、アジャンタとエローラの石窟群を見ること。岩壁をくりぬいて作られた美しい仏教とヒンドゥー教の寺院群は期待を裏切ることのない素晴らしさだった。感動で胸が震えた。特にエローラの巨大な岩の崖を削って作られたカイラーサ寺院の美しさは筆舌に尽くしがたかった。1000年以上昔の人間がこれを生み出したかと深い敬意が自然と湧き上がった。
 
西インドの旅は、アジャンタとエローラが見られただけで、その目的は果たしたのだけれど、最大の感動はその後にあった。地球の歩き方に小さく「マンドゥ」という街の情報が載っていたのだ。街の名は聞いたことが無かった。旅人の間でも話題に上がったことはない街だった。遺跡群があるらしい。誰も行かない街だからこそ、興味をそそられた。

マンドゥへはムンバイからバスを乗り継いで10時間ほどかかった気がする。途中の経由地である2つの地方都市でバスを乗り換えることはそれなりに難儀して、さらに最後のバスは小さく暑く、狭い車内で膝の上にのせたバッグを抱えて背中を丸くしながら5時間。バスの車内でマンドゥへ向かったことを後悔していたことを覚えている。

マンドゥには夕方着いた。街の入り口付近にあった宿を訪ねた。宿探しをする気力はすでになく、通されたコテージは簡素だったけれど居心地が良さそうだったので、そこに決めた。その日はすぐに休むことにした。宿のレストランで食べたほうれん草とチーズのカレーがすばらしい味で、さらに空を見上げると満点の星空だった。小高い丘にあった宿をそっくり星空が包んでいた。ひとり旅の切なさは感動を伝える相手がいないこと。今こうして14年越しに文章でそれを伝えられて感無量だ。

翌朝宿で自転車を借りて、街を回った。街の真ん中にはメインロードが一本走っていて、あとは細い未舗装の道が葉脈のようにメインロードから伸びていた。街のあちこちにインドでは他で目にしたことのない巨大なバオバブの木が生えていて、赤茶けた乾燥した土地にその姿が映えて見えた。驚いたことに、30分も走れば街の端までついてしまった。マンドゥは本当に小さな素朴な街だった。店も街の中心のあたりにいくつかあるだけだった。しかし、とにかく素晴らしかった。その小さな街の中心には、イスラム寺院の跡があった。それだけでなく街のあちこちに18世紀までその地に存在していた都の跡が点在していた。そして城や寺院の跡が街を取り囲んでいた。遺跡は見世物としては一切整備されておらず、ただそこに朽ちてあった。広大な遺跡群の真ん中あたりに、ぽつんと小さな村があった。イスラム寺院の跡の上では朝のバザーが開かれ、自家製の野菜を広げたおばあちゃんは、その人懐こい笑顔を汚らしい異邦人の僕にも向けてくれた。遺跡は素朴な村の生活とともに、ただあった。その風景に感動した。どうしてかうまく言えないのだけれど、過ぎ去った栄華の跡に、朴訥とした小さな生活があることに、続いていく人の営みや歴史を感じ、それに感動したのだと思う。

旅に出ると、知ることがたくさんあった。

2004年の中国への旅も忘れることができない。2004年当時、サッカーのアジアカップをきっかけに、中国で反日感情が爆発しているという報道が連日なされていた。それに比例して、日本人の反中感情も高まっていたように思う。そんな2004年の12月に仙人の住む山、まるで水墨画の風景そのものと称される黄山という山に登ってみたいという目的で、僕は中国へと旅に出た。

反日感情が高まっているという報道はもちろん知っていたから、警戒していた。自分自身も、黄山への興味はあったけれど、中国人には良い感情は持っていなかった。しかし、そんな思い込みはいとも簡単に覆ることになる。

入国した上海では浦江飯店というクラシカルな高級ホテルに泊まった。なんて書くと格好いいが、今でこそ安宿が増えた上海には当時、安宿がまったくと言っていいほど無く、バックパッカーには、この浦江飯店の屋根裏のドミトリーに泊まることが裏ワザとして知られていた。おそらく本来は従業員用の寝床であろう部屋には、シャワーなんてものはなく、シャワーを浴びたければひとつ階を下って、従業員用のシャワーを借りなくてはいけなかった。シャワーにたどり着き、体を洗い流す。そのときに石鹸を持ってくるのを忘れたことに気づいた。日本を出てきてから何時間かが経っており、さっぱりしたいところだった。石鹸で体を洗えないことが残念で肩を落としていると、それに気づいたのだろうか、となりのシャワーブースで体を洗っていた中国人の青年が、だまって自分の使っていた石鹸を差し出してきたのだ。これには驚き、えらく感動した。自分にはそんな親切はできないからだ。「シェイシェイ」たどたどしい中国語で伝えると、まだ10代だろうか、若い青年ははにかむだけだった。

夜行列車で黄山まで移動した翌々日、いよいよ黄山登山に挑戦した。黄山の登山は階段などが舗装されていて、とても簡単だとガイドブックには書かれていた。それが実際はどうだろう。運が悪いことに、何年かぶりの大雪のあとで、それはなかなか過酷な登山になった。
ひとりで心細く、しかも途中の案内図は中国語でさっぱり分からない、でも、出会う中国人はひとり残らず道を説明しようとしてくれた。山の道の案内だ。街の道案内のようにはいかない。それでも誰もが必死に道を僕に教えようとしてくれた。
人々の善意に支えられ、なんとかホテルにたどり着くことができた。疲れ果てていて、大きな目的のひとつだった御来光の時間に起きられなかったことが今でも悔やまれる。

翌日は、黄山のふもとにある宏村という村落に向かった。宏村は周辺の近代化から忘れ去られた昔ながらの姿と生活様式を残す村だった。
宏村では気がつくとひとりの少女が道案内を始めてくれた。特に頼んだわけではない。気がつくと隣にいたのだ。宏村は世界遺産に登録されていたものの、発展から取り残された古い村で、中国政府はそこを積極的に宣伝していなかった。入村には許可とお金が必要で、その時は外国人観光客の姿をほとんど見ることはなかった。外国人がめずらしかったのか、そのかわいらしい15歳くらいに見えた女の子は、僕に中国語で一方的に話しかけ、手を引っ張って街のあちこちを案内してくれた。中国人は反日なんて誰が言っているんだろう。自分のことを棚にあげ、そんないら立ちを感じたことを覚えている。

宏村から黄山の鉄道駅へ向かうことが大変だった。観光地としてはあまり注目されていなかったせいか、公共交通の便がなく、やっと見つけたバス停にはいつまで経ってもバスは来なかった。1時間以上バス停で待ちぼうけをしてから、勇気を出して初めてヒッチハイクをしてみた。うまくいくのだろうかとおそるおそる指をあげてみると、しばらくたって目の前で1台のバイクが停まった。バイクのお兄さんは、「トレインステーション」という僕の言葉にうなずき、後ろに乗せてくれた。そして、駅前で僕をおろすと、何も言わずに走りさってしまった。中国人は日本人が嫌いで、憎んでいる。そんなこと、誰が決めたのだろう。思い込んでいた自分が恥ずかしくなった。

この上海、黄山の旅を経て、僕の中国や中国人への見方は変わった。その後も中国には何度か足を運んでいる。

こんなふうに旅の思い出を綴りだしたら、いくらでも書けてしまう。愛するバングラデシュのこともまだ書いていないし、「真夜中のドイツで言葉の通じない世界の男たちの心がひとつになった瞬間」のエピソードなんて、誰かに伝えたくて仕方がない。カーンチプラムやクトナーホラにグアナファト、たくさんのきれいな風景を見てきた。最新の情報はひとつもないし、誰かの思い出話を聞かされ続けるのはたまったものじゃないと思うけれど、でも聞いてほしいからまた何かの機会に書きたい。ばかばかしい話もたくさんあるし、きっと感動させちゃう話だってたくさんある。淡い恋愛の話は残念ながら無いのだけれど。

旅はいくつもの思い出を僕に残してくれた。大切なことをいくつも知ったし、しなくてもいい経験もいくつも重ねた。それから時に危ない思いもした。

無計画で無鉄砲で、何より向こう見ずな冒険のようなひとり旅は、家族を持ってもうできなくなった。けれど、それでも今いる場所から旅立つことで、見えるものや知られるものがあり、会える人がいるのではないかと思う。早くコロナがおさまってほしい。まだ世界は僕を待っていると思いたい。



2020年10月17日土曜日

秋を拾い集め、味わい、楽しむ どんぐりの授業

今月に入ってから、どんぐりの授業を楽しんだ。

まずはどんぐり集め。どんぐりの一覧が描かれたイラストを頼りに、校内にあるどんぐりを拾い集める。
種類の判別は、形と大きさ、それに帽子の形状もポイントになる。
「どんぐり」とひとくちに言っても、校内にはまるまるとした͡クヌギもあれば、スマートなマテバシイ、それに小柄なシラカシ、コナラ、忘れてはいけない栗。様々などんぐりが落ちている。
なんていかにもどんぐりに詳しいふうに書いたけれど、僕も子どもたちと同じく、イラストを頼りに拾ったどんぐりの形や大きさ、帽子の形状をもとにその種類を判別したのだ。クヌギなのかアベマキなのかは実はよく分かっていない。

秋らしい高い空のしたで、子どもたちが木々に見守られながら、その足元のどんぐりを拾い集める姿は、なんとも平和で、心が穏やかになる。仕事についていろいろな悩みはいつでもついて回るけれども、この景色のなかの子どもたちを見たら、すべてを呑み込んで、溌溂と彼らと向かい合いたいと思える。日なたは温かく、それでもずいぶんと涼しくなった風が子どもたちにふく。子どもたちはどんぐり拾いに夢中で、風の涼しさには気づかない。季節の変化に敏感なのは、季節の傍にいるなのかもしれない。季節の真ん中にいる子どもたちは、それをあまり気にしていない。

どんぐりのなかでも特にマテバシイはとっておきだ。「待てばシイの実のようにおいしくなる」が名前の語源だという説もあるらしい。少しでレンジで温めると、少し苦みのある歯ごたえを感じる栗のような味と食感を楽しめる。
苦みに舌を出す子どももいた。「それが秋です」となんとも理不尽なことを言うと、なんとなく通じたのか、笑顔になった。みんなでいっしょに秋を味わうことができた。

週のはじめは、ため込んだどんぐりでたっぷり工作を楽しんだ。前日に煮沸消毒をしたら、部屋中がアクの苦みでいっぱいになって、参ってしまった。
きりを使って頭に穴をあけ、そこに楊枝をさせば、どんぐりゴマのできあがり。白いペンと名前ペンでトトロ。ここまでは僕が教えたけれど、楊枝とペンで子どもたちは様々なものを生みだしていた。

その後の算数の授業では、引き出しの中からコマを出していじりだす子がいて、「だめだよ。しまっておくれ。」と注意した。直後に別の子が同じことをしだして、苦笑い。いや、うれしくて笑う。そりゃ算数より自分の作ったコマで飽きるまで遊びたいよね。それでいいと思う。本気で怒ったりしないよ。きっと子供もそれを分かっている。
朴訥としたどんぐりの授業だった。それで何が身に着いたのとか簡単に言葉で表せないんだけれど、簡単に言葉で表せないことを日々積み重ねていくことが、長い目で見れば子どものこれからを豊かにしていくと思う。





2020年9月12日土曜日

地味な滋味を味わう

 毎日絵本の読み聞かせをしている。

去年もたまに読み聞かせをしていた。
担任ではなかったが、比較的時間に余裕のできやすい雨の日の朝に、担任が教員室に行っている隙に、1・2年生の教室に突然お邪魔し、おもむろに読み聞かせを始める「雨の日の読み聞かせおじさん」という妖怪になっていた。
それはそれでとても楽しかった。
ただ、そういう突発的な読み聞かせのときは、わりかし惹きつけやすい内容の本ばかりを選んでいたように思う。突然の坊主頭の読み聞かせを楽しい時間だと思ってほしかったからだ。
「だめよ、デイビット!」シリーズは間違いなかったし、アランメッツの「はなくそ」はどの教室で読んでも、笑顔の叫び声があがった。刺激のある作品をどこか意識的に選んでいた。

クラス担任に戻り、毎日同じ子どもたちに読み聞かせできるようになった。
コロナの対応で、なかなかじっくり読み聞かせられるゆとりのある時間がとれないことは悩みだ。
そんな状況なので、比較的早く読める福音館書店の「こどものとも」「かがくのとも」を手に取るが増えている。
そして、これまでのように刺激の多い作品ばかりを読むことはなくなった。これまで読んできた本に比べ、地味に見えるものも読み聞かせるようになった。
たとえばこどものとも5月号「ぼくのつり」。父親と早起きしてつりに行く少年の様子が描かれる。
子どもたちにとって退屈にならないだろうか心配になった。

いざ読み聞かせると、子どもたちはじっと絵本のほうを見つめていた。
読み聞かせる僕も、だんだんと日が昇っていく時間の経過を淡々と描く絵の美しさを感じていた。
地味に見えた絵本の滋味を子どもも僕も味わっていた。
笑い声のような分かりやすい反応は起きなかったが、読み終えたときに緩やかな満足が教室を満たしていることは感じられた。

ああ、大切な絵本のよさだなあと思った。
どうしても刺激の強いもの、反応の起きやすいものを手にとってしまう。言い訳になるが、これは僕だけの傾向でないように思う。大きく言えば世の中全体の傾向でもあるように思う。そのうち地味に見えるものは、世界から駆逐されていってしまうのではないだろうか。

でも、薄味にもたしかな味わいがある。
それを味わえるようにしていくことが、学ぶことの大きな意義なのではないか。日々のささやかな美しさに気づけることは豊かさと言えるのではないだろうか。
絵本の読み聞かせをしていて、そんなことを想う。
地味な滋味を味わえるように、選書していきたい。

ああ、それから、絵本には、理解を越えたナンセンスなものもあって、それも魅力だ。
来週のどこかで「とらのゆめ」を読みたい。
https://www.fukuinkan.co.jp/book/?id=6564

2020年9月10日木曜日

くうそうえにっき

「あさおきたら だいすきな ちょこれーとの うみでおよいでた。うきわは どーなっつの うきわで びっくりしました。」 


たまには実践(授業)の話。

1年生では毎年夏休みには絵日記の課題が出されている。

学校の文化である日記、その第一歩となる課題である。

今年はコロナの影響で、絵日記が書きたくなるような出来事がどの家庭でも少なくなるだろうと思い、例年よりも絵日記を課す枚数を減らし、その代わり「くうそうえにっき」をかかせることにした。

(普段の夏休みだって、家庭の状況により子どもの過ごし方はまちまちで、慮ることは必要。)

事前の授業では、みんなで大ぼら吹きを目指す活動をした。

「嘘をつくことをほらを吹くとも言います。今日はみんなで大ぼら吹きを目指そう。嘘をついて人をだますことは悪いことだけれど、今日は特別に何でもかんでもほらをふいてオーケーです。できるだけ大きく大きくほらをふこう。ただ、聞いた人が悲しくなったり、苦しくなったりするほらはやめてね。聞いた人が愉快になるような大ぼらを考えてみよう。」

ひとり、またひとりと手が挙がっていって、その日は大盛り上がり。

そんな活動を経て、夏の課題「くうそうえにっき」が子どもたちに課された。


そして提出された日記の書き出しが、冒頭の文章。傑作。

他にも、恐竜の時代に行ったり、犬になったり、あさがおの芽が開くと中からちょうちょが生まれたり、読んでいてたまらなくなる傑作ぞろいだった。

子どもたち自身も楽しんで取り組んだことが作品から伝わってくる。

予備にもう1枚、くうそうえにっき用のワークシートを配っていたが、クラスのほとんどの子が2枚の作品を仕上げていた。


読んでいてたまらなく楽しんだことは、興奮を隠さずに子どもたちに伝える。

文章を書いて表現することで、人の感情を動かすことを知ってもらいたいからだ。

そして、それぞれの作品にコメントを添えて返す。


僕だけが楽しむのではもったいない。コメントも僕のものだけでは、足りない。

子どもたちもお互いのくうそうえにっきを読み合った。

読んだ感想は付箋に書いて送り合う。そのときには「えんぱわーこめんと」を心がけるように伝えた。

「えんぱわーっていうのは相手を力づけることだよ。もらった相手が元気になるようなコメントを目指してみよう。」

このポジティブなフィードバックを送り合う活動は、とても意味のある活動だと思っていて、続けている。

(その活動についての報告はこちら。

https://www.u-gakugei.ac.jp/graduate/professional/upload/a_report_2019_17.pdf)

果たしてそれが1年生にもできるのか心配だったが、ほとんどの子が意図通りにポジティブなコメントを送っていた。繰り返していけばコメントの精度も上がっていくように思う。

何より、自分の作品を読んで、それに感想が来ることはうれしいものだ。

これから6年間、人によっては一生の習慣となるかもしれない日記の第一歩を、書くこと・読んで味わうこと・感想を受け取ることを通じて前向きに踏み出すことができたと思う。


最後にもう一編。ありっくとは僕のこと。

「あさおきたらありっくがでてきて そのまま こあらになった。そしてつぎにだんごになりました。そしてわたしがたべてしまったのです。ありっくだんごはわたしのおなかのなかでたすけてーといったのです。」









2020年9月7日月曜日

誰かのために

 金曜日に学校の飼育活動を担当する4年生が、1年生に動物たちを紹介する時間があった。チャボとウサギとヤギが学校では飼われている。

小屋から広いスペースに出されたチャボを、4年生のSくんが慣れた手つきで抱き上げている。隣では1年生のTさんが両手を出して構えている。
Sくんはその手の上に、チャボをそっと手渡していく。
「チャボの下の胸のほうを、やさしく支えるんだよ。必ず両手でね」その言葉がとてもやさしい。
Tさんがしっかりと抱きかかえられたことを確認し、添えていた手を少しずつ離していくSくん。おとなしく抱かれているチャボ。固まっていたTさんの表情がだんだんと笑顔に変わっていく。
「ふわふわしてあったかい!」気がつくと満面の笑みのTさん。
カメラを覗く僕も、おそらく満面の笑み。
帰りがけにSくんが近づいてくる。独り言のようにつぶやく。
「Tちゃん、喜んでいたね。かわいかった。あのさ、アリック、実は今日まで僕、チャボ抱っこできなかったんだよ。僕も今日が初めての抱っこだったんだ。」
嘘のような、本当の話。



2020年9月6日日曜日

20200904 石川晋連続講座「個別最適化の迷宮」

 金曜日は石川晋さんの連続講座「個別最適化の迷宮」に参加した。

ここ最近はめっきり「個別最適化」について懐疑的な気持ちになっていたので、どんな話が聞けるか楽しみだった。

はっきり言えば、個別最適化の悪口を言いたかった。


蓋を開ければ、もちろん昨今の個別最適化風なものに対する批評的な語りはあったけれども、それよりも、そもそも個別最適化とはなんなのだろうかということを考える時間になった。

初めの話は晋さんの「誕生日通信」の実践の話からだった。

「自分がやってきた実践の中で、個別最適化はどれかといえばこれなんだと思う」

クラスの誕生日の子どもひとりに向け学級通信を発行する実践。

子どものエピソードが書かれ、その子に送るために探された詩が載り、また晋さんも子どもの名前の頭文字から始まる詩を書いて送る。

「ひとりの子どものためのことが全体にも何かしらの影響を与えていく」

それを晋さんは個別最適化なのだと語った。


個別最適化を初めて知ったのはいつだろうか。

苫野さんの本を読んだときかもしれない。

僕の解釈ではこんな感じだった。

学級の中には様々な子がいて、いわゆる落ちこぼれもいればその逆の吹きこぼれもいて、結局現状の一斉授業はクラスの本の一部の子ども(学力で言えば中位からちょっと下位くらい)がターゲットになってしまっている。

そうではなくて、自由進度や子どもの選択を広げていくことを認めていけば、子どもひとりひとりにとってよりよい学習ができるはずだ。

そのような考え方のもと、取り入れられることが個別最適化だった。

とても共感した。

自分自身の子ども時代を思い出しても心当たりはあったし、教員として抱えているジレンマもあった。

それで自分も授業のなかで個別最適化を意識するようになった。


ただ、GIGAスクールやコロナ禍のオンライン授業のあたりから、この個別最適化の文脈が変わってきているという漠然とした違和感があった。

「個別最適化=パソコンを使ったAIチックな自学自習システム」みたいに単純なものにしていく傾向を感じて、自分の心が離れていった。

それはまるで、新自由主義的なものに教育が絡めとられていく流れにしか思えなかった。

それに個別化が孤立化になっているように思い、これまで学校で大切にしてきた(と自分は考えている)集団だから起きる麗しきカオスみたいなものがないがしろにされている気がしたのだ。

個別最適化が単なる効率の良いドリル学習のことになっている印象を受けたのだ。

それ自体は否定しない。でも、それが素晴らしくて、これからの学校の学習のど真ん中なんだと言われると、じゃあ自分の情熱を傾けることじゃないだろうなと思ってしまっていた。


こうやって振り返ると、自分自身が世の流れに消極的に迎合していたことに気づく。

世の中の一部の流れに自分自身の解釈がゆがめられ、ひとりで心を離していたんだろう。


晋さんが語ったように、個別最適化は従来の教員がみんな持とうとしていた「子どもたち一人ひとりへの力強いまなざし」に支えられるべきものだと思う。

子どもたちをひとりひとりの複雑で難解で愛すべき存在として受け止めて、そのうえでじゃあどうしていこうかって一緒に考えていくうちに、周りも巻き込まれていく。それが個別最適化だと僕は考えたい。


「そうしたら、この迷宮から抜けられるって、そう思いませんか」

そう言って笑った晋さんはとてもかっこよくて、思わず拍手をしてしまった。