2020年4月20日月曜日

「当たり前のことを当たり前にする」

学校でよく耳にする言葉だ。
どこかでそれに違和感を持つことがあった。
なんでだろうか。
自分が、「当たり前」という言葉を子どもに使わないのはなぜだろうか。

その言葉は誠実ではないものを感じるからだ。
フェアな言葉じゃないのだ。

だって、その当たり前は誰にとって当たり前なのだろうか。
誰が決めた当たり前なんだろう。
それは、その言葉を使う本人に他ならない。
教員から子どもに使う場合、その当たり前を規定しているのは教員だ。
それなのに「当たり前」という言葉は、まるで世間一般が暗黙で規定していることのような響きがある。
教員という個人の規定なのに、まるで世間一般の規定のような響きを持たせることは、フェアじゃないと思うのだ。
そして、世間一般の大きさは、有無を言わせない圧力がある。
例え納得できなくても呑み込まなくてはいけないような、とても乱暴な言葉のように思うのだ。

それを逆に子どもから教員に使ったらどうなるだろう。
「先生、当たり前のことだから当たり前にしてよ。」
とても乱暴に聞こえないだろうか。
僕は子どもが自分に使っても受け止められる言葉を使っていきたい。

自分にっとて当たり前のことでも、「当たり前」という言葉は使わず、たとえまどろっこしくても、相手に伝わるように丁寧に言葉を尽くすことが、教員でありひとりの大人としての誠実でありフェアな態度だと思う。

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